フロイトとエリクソンの発達心理学とエニアグラム2:口唇期と乳児期の説明
本稿は以下の記事の続編である。また、表題にある通り「フロイトとエリクソンの発達心理学とエニアグラム」のシリーズ記事である。とはいえ、本稿に関しては、エニアグラムについて全く触れていない。ひょっとしたら、本稿は再編集してシリーズから独立させるかもしれない。
さて、前回記事では、フロイトとエリクソンの発達理論の全体的な構造について話をした。本稿では、両理論における「0-1.5歳期」を取り上げていこうと思う。
「0-1.5歳期」の発達段階
フロイトの発達理論でもエリクソンの発達理論でも、0-1.5歳の人間は共通のライフステージにあると考える。それぞれ「口唇期」「乳児期」と呼び名は異なるものの同じ年齢区分である。また、この時期にクリアすべきことは両理論共に「親との直接的な身体接触が過不足ないか」である。もちろん、フロイト理論では「リビドー充足」という観点で「親との身体接触」を解釈し、エリクソン理論では「発達課題克服」という観点で「親との身体接触」を解釈する。しかし、どちらの理論であっても「0-1.5歳期」の健全な発達において親との適切な身体接触が過不足なく与えられていることが必要としている点で変わりはない。
さて、0-1.5歳期における親との身体接触がどのように解釈されるか、それぞれの理論の解釈を見ていこう。
■フロイト発達理論:口唇期
前述の通り、フロイト理論において0-1.5歳期を「口唇期」と呼ぶ。フロイトの発達理論において、この時期の人間のリビドーが向かう先は「口唇」である。つまり、口唇刺激によってリビドーが充足される時期と考えるために、この時期を「口唇期」と呼ぶ。
具体的に説明すれば、空腹によって授乳されることを望んだときに、口唇に母親の乳房なり哺乳瓶が宛がわれる刺激によって、リビドーが適切に充足されるという訳だ。この経験を適切に積むことによって人間は口唇期を問題なく通過する。このように、「ライフステージ毎に異なるリビドーが向かう部位」に着目するフロイト理論の源流に近い立場においては、より「口唇」自体への刺激が重視される。
一方、源流から離れた立場では、「親との直接的な身体接触」という形でリビドーが充足される経験を重視する。すなわち、授乳だけでなく沐浴や抱っこされるといった、親から直接的な世話をされる経験も含むと考えるようだ。
口唇期においてリビドー充足が不足して固着が起きたとき、「強い他者依存」という性格特徴が出てくる。口語的表現で示すと「甘えん坊・かまちょ・寂しがり屋」といった性格になる。口唇期に満たされることの無かった「誰かとベタベタしていたい」という欲求を追い求める性格になるという訳だ。
更に、フロイトの源流に近い「リビドー充足部位」に拘る考え方によるならば、この時期に固着が起きた場合は「口唇」に関係する欲求が強固になる。すなわち、(過食や飲酒等の良くない習慣も含む)飲食へのこだわり・(口を動かす)お喋りへのこだわり・口唇刺激が生じる習慣(幼児の指吸・爪噛み、成人後の喫煙など)が生じるとされる。もっと一般的に「享楽的性格」になると考えることもある。
そして、このライフステージで固着した場合の性格特徴を「口唇期性格」という。
また、口唇期においてリビドーが過剰に充足されて"退行"が生じた場合(ただし、口唇期に関しては遡る先はない)には、受動的性格になるとされている。一方で、攻撃的性格になるともされており、中々に理解が難しい。まぁ、「何もアクション(この時期なら"泣く"こと)をせずとも欲求が充足されてきた状態」にあったときの性格特徴が、退行が起きたときの性格特徴とされているので、「自分が何もせずとも勝手に上手くいくとの予想を抱きがちで、その予想が覆されると癇癪を起す」といった性格特徴を指しているのであろうと解釈すればよいだろう。
■エリクソンのライフサイクル論:乳児期
前述の通り、エリクソン理論において0-1.5歳期を「乳児期」と呼ぶ。
さて、エリクソンのライフサイクル論は弁証法的構造があると前回記事で説明した。すなわち「テーゼ-アンチテーゼ-ジンテーゼ」という弁証法の構造と対比できる、「発達課題-心理社会的危機-獲得される徳」という構造である。したがって、この構造を前提にライフサイクル論の「乳児期」の説明をしよう。
まず、各々は以下である。
発達課題 :基本的信頼
心理社会的危機:不信
獲得される徳 :希望
ここで登場する発達課題の「基本的信頼」とは、世界の善意に対する確信である。テーゼの形で示すなら「自分の生きている世界(や周囲の人々)は信頼できる」という感覚である。一方、心理社会的危機の「不信」とは、世界の悪意に対する確信である。アンチテーゼの形で示すなら「自分の生きている世界(や周囲の人々)は信頼できない」という感覚である。前回記事で述べた通り、発達課題と心理社会的危機によって「葛藤」状態になる。この葛藤状態を克服することで「希望」という徳を獲得する。この希望という徳は「たとえ今は良くなくても、未来は良くなる」という確信である。
さて、「空腹になって泣く、排泄による不快で泣く、不安で泣く」といった行動を乳児はとる。そして、保護者(※乳児からすれば世界)から授乳・おしめ交換をされ、抱き上げられて笑いかけられるといった形で、欲求が満たされる。つまり、「自分のアクションによって望みが叶う」という体験をする。このことによって、乳児は「世界の善意」に確信を持つようになる。すなわち、「自分の生きている世界(や周囲の人々)は信頼できる」という感覚―—基本的信頼―—が形成される。
しかし、乳児が「不快あるいは不安」が生じたときに、保護者(※乳児からすれば世界)が直ちにそれらを解消して乳児の欲求を充足できるかと言えばそれは不可能である。言い換えると、乳児の不快や不安の発生とその解消、あるいは欲求の知覚と充足の間にはタイムラグが生じる。このタイムラグによって心理社会的危機である「不信」が生じるのだ。
この危機の発生の構造を、交通安全標語「車は急には止まれない」の譬えで説明しよう。すなわち、「子供が道路に飛び出したときに自動車が停止するまで」の構造で解説する。
さて、使う車が停止するまでに発生するラグの構造は以下だ。
t1:子供が飛び出す
認知ラグ(飛び出しからドライバーが気づくまでのタイムラグ)
t2:子供の飛び出しにドライバーが気付いてブレーキを踏む
効果ラグ(ブレーキがかけられてから車が止まるまでのタイムラグ)
t4:車が停止する
子供が飛び出しても直ぐにドライバーは気付くわけではなく、飛び出しを目視したときに気づくのでタイムラグが生じる。この飛び出しに気づくまでのタイムラグが認知ラグである。そして、ドライバーが飛び出しに気づいたら直ぐにブレーキを踏む(細かく言うならば、気づいてから操作するまでの"操作ラグ"というものがあるが簡便化のため省略)。しかし、ブレーキが利き始めても直ぐには車は止まらない。ブレーキがかけられてから車が止まるまでのタイムラグが効果ラグである。
この構造の抽象度を上げてみよう。
T1:問題発生
認知ラグ
T2:認知&アクション
効果ラグ
T3:問題解決
一旦ここまで抽象度を上げると乳児が直面する問題にも敷衍するのは容易だろう。乳児の問題に実際に敷衍してみる。
t'1:空腹
認知ラグ
t'2:空腹に気付いて泣く
効果ラグ
t'3:(保護者からの)授乳による欲求充足
上記のように、敷衍できることを念頭に起きつつ、自動車の譬え話に戻ろう。
さて、あなたが車を運転していたとする。そのとき、前方の歩道から小学生がイキナリ飛び出したとしよう。あなたは「危ない!!」と叫んでブレーキを踏みこむ。
(1)車は「キキーッ!」とスキール音を立てて止まる。ブレーキが間に合って一安心。
(2)ブレーキをいくら踏み込んでも車は全く減速しない。あなたは「ウソでしょ!なんで止まらないの?!」と絶叫してしまう。
この自動車の譬え話の(2)のケースにおいて生じているものは、疑いようもなく「不信」であると言えるだろう。車への不信なのか、現在の事態そのものへの不信(=現実とは思えない気持ち)なのかは不明だが、この場合に発生するのが「不信」であることには変わりがない。このドライバーの不信に関してだが、車のブレーキを踏んで1分後にブレーキがかかり始めるというレベルの効果ラグでも「不信」は生じるだろう。また、ブレーキを踏んで3回に1回はランダムでブレーキが利かないといったものでも「不信」は生じるだろう。
つまり、アクションをとったとき許容できる時間のなかで効果が見え始めないと「不信」が生じるのである。この構造は、譬え話に用いた自動車の例だけでなく、乳児期の心理社会的危機においても成立している構造である。 乳児期の心理社会的危機「不信」の発生メカニズムは上記の譬え話による説明で理解できたと思う。
とはいえ、乳児期の心理社会的危機の「不信」に話を戻して確認しておこう。
乳児は「空腹・排泄物による不快・保護者が見当たらない事による不安」を認知すると、それらの不快・不安を解消するアクションとして泣く。一応、不快や不安を生じされる問題の発生自体は認知の前に生じているためにタイムラグが生じているが、このタイムラグ=認知ラグによっては心理社会的危機の「不信」は生じない。しかし、乳児の「泣く」というアクションの後、直ちに保護者が乳児が認知した不快・不安を解消して欲求を充足できるかどうかは分からない。すぐには対応できない場合や乳児が認知している不快・不安の正体がすぐには分からないために解消に時間がかかる場合もある。このようなとき、乳児の許容範囲の時間を超えて、効果ラグが生じた場合、乳児に心理社会的危機の「不信」が生じるというわけである。
ただここで注意点がある。譬え話で用いた例が「車に対する不信」になってしまっているので、「そんな"不信"が生じたらダメだろう!」という印象もまた生じてしまったであろうと懸念する。
実は、乳児期の心理社会的危機「不信」は、あくまでも程度問題なのだが、生じても構わないものだ。むしろ、この乳児期に獲得できる徳の為には必須のものと言ってよい。
この事に関しては、エリクソンのライフサイクル論の構造には弁証法的構造があると最初に断った通りである。テーゼに対するアンチテーゼがあり、それが止揚されてジンテーゼになるように、発達課題に対する心理社会的危機という葛藤があり、それが克服されてそのライフステージで獲得される徳となるのだ。
つまり、乳幼児において、発達課題である「基本的信頼」とそれに対する心理社会的危機である「不信」という葛藤があり、それが克服されることで乳児期の徳である「希望」が獲得できるのである。もっと具体的に言うならば、「"泣く"というアクションを取れば基本的に欲求は充足される。そのように世界の善意を信じて良い。しかし、常にアクションを取ったからといって欲求がすぐさま充足されるわけではない。そのとき"不信"を抱くことにはなる。しかし、やがて欲求は充足される。そのように将来に対して希望を持つことができるのだ」というものになるだろう。
以上がライフサイクル論の乳児期における「発達課題-心理社会的危機-徳」の弁証法的構造である。次に、発達課題が与えられなかった場合と心理社会的危機が与えられなかった場合について考えよう。
まず、発達課題が与えられなかった場合の典型例はネグレクトを含む虐待のケースである。
乳児期の発達課題は「基本的信頼」である。つまり、「(乳児を取り巻く)世界の善意」を感じ取ることだ。しかし、保護者が乳児を虐待していたり、育児放棄していた場合に乳児に与えられているものは、「(乳児を取り巻く)世界の悪意」であって「(乳児を取り巻く)世界の善意」ではない。このケースにおいて乳児には発達課題である「基本的信頼」が与えられていないと言えるだろう。
もちろん、ネグレクトや虐待とまで言える水準ではなくとも、乳児にとって「(乳児を取り巻く)世界の善意」を感じ取るに足る水準での育児が為されていない場合、乳幼児期の発達課題という観点で不十分な水準の発達課題であると言えるだろう。このような場合もまた同様に考えることができる。
さて、乳幼児期の発達課題である「基本的信頼」が与えられなかった場合はどのような性格になるかといえば、「基本的不信感」を持った性格特徴になる。すなわち、自分の生きる世界について、自分の周囲の人々について、さらには自分自身や自分の未来について不信を抱く性格になる。悲観的世界観となり、「誰も自分を助けてくれない」といった猜疑心に満ちた性格となり、自分に対して無力感を抱きがちになり、将来に希望を持たない無気力な性格になる。このようなことから情緒の発達の遅れや問題行動なども生じることが多い。
次に、心理社会的危機が与えられなかった場合について考えよう。
これは乳児が"泣く"というアクションを取る前に、あるいは"泣く"とすぐさま乳児の必要を満たす場合がそれにあたる。つまり、先の譬え話で言うならば、「認知ラグ・効果ラグ」がほぼ無い場合が、心理社会的危機が与えられなかった場合に相当する。
この心理社会的危機が与えられなかった場合には「欲求はすぐさま充足されるのが当たり前である」という認識が生じてしまう。それゆえ、「すぐさま叶えられなくとも、やがては叶えられる」という"希望"という徳は得られないのだ。すなわち、「冬来たりなば春遠からじ」という楽観主義は持てなくなってしまう。「今が良くなければ、まったく良くないのだ」という我儘といってよい性格特徴が現われることもある。
また、「基本的信頼」にせよ、「基本的不信」にせよ、いずれか一方が過剰となることは性格として歪んだものになると言ってよい。基本的不信が過剰である猜疑心しかないような性格が問題であることは言うまでもないが、基本的信頼が過剰で、「誰に対しても警戒感を抱かずに疑いもせずに信じ込む」という、お人好し過ぎる性格もまた問題であることは論を待たない。