女性の「生理的に無理」概念の権力性(上)
はじめに
「生理的に無理」という表現を女性はかなり頻繁に用いる。しかし、「生理的に無理」と言う割には、根拠となる生理的要因がかなり不明である。それに対して「本能的に無理だから説明できない。生理的に無理だといったら生理的に無理なのだ」との女性の意見もよく見かける。しかし、それは単に思考や説明を面倒くさがっている態度に過ぎないように見受けられる。
その女性の考え方は「由らしむべし、知らしむべからず」といった権力者の考え方に非常に類似した考え方である。「アタシが嫌だから嫌なのだ。その理由が何かなんて説明する必要を感じない。もしアタシと付き合っていきたいなら、生理的な理由なんだからアンタがアタシに合わせるべきでしょ」という態度が現れたものが、「生理的に無理」という態度だ。まさに、相手の納得を得ることなど一考の余地すらなく、一方的に相手が自分に合わせることを要求している。実際、女性のそのような振舞が社会において許されているからこそ、女性は考え方を変更しないのだろう。
だが、女性が「それは生理的に無理なのだ」と挙げる具体的対象を検討すると、そのかなりの部分が生理的要因とは何の関係も無い。たしかに、本当に生理的要因により忌避しているならば、付き合うほうが対応を講じなければならない。だが、生理的要因でないならば必ずしも付き合う方が対応すべきものと決まっている話でもない。双方が歩み寄りをすべき場合も少なからず存在する。
生理的要因でないものを生理的要因であると偽装することで女性はある種の権力を獲得する。そしてそれは、ミサンドリーとも結びついている。女性が持つ価値観から一方的に決めた序列から見て、そぐわぬ立場にいる男性に対して、反論を許さぬ形で男性を罵倒して貶めてその男性の立場を引き下げる。罰をもって男性を恐怖させて女性に従属させるミサンドリー、すなわちケイト・マンが指摘したミソジニーと類似の構造である。それは「ひれ伏せ、女たち」ならぬ「ひれ伏せ、男たち」というべき権力構造といえよう。
この記事シリーズ「女性の『生理的に無理』概念の権力性」においては、そういった女性の権力性の問題を見ていく。
一先ず、女性が「それは生理的に無理なのだ」と挙げる具体的対象を検討するなかで、本当に生理的要因で忌避されていることと、生理的要因では無いにもかかわらず生理的要因と詐称していることを区別していく。また、女性が「生理的に無理」とするときの説明図式を検討して、それが妥当かどうかも同時に見ていく。
「生理的に無理」と女性が挙げる具体例
検索語を「生理的に無理」にして検索すると、いくつものサイトが「生理的に無理な男性」について特集した論考を提示している。そのなかでTOPページに登場した以下のサイトの論考を取り上げ、本当に生理的要因で忌避されていることと、生理的要因では無いにもかかわらず生理的要因と詐称していることを区別する。また、女性が「生理的に無理」とするときの説明図式を検討して、それが妥当かどうかも同時に見ていく。
[例1:生理的に無理な人の特徴とは?|意味や判断基準、接する際の対処法も解説]
1.「生理的に無理」を多用する女性
「生理的に無理」の概念を振り回すのは女性が中心である。このことは大抵の論者が共通して指摘する。例1の論考でも同様だ。例1の論考の特徴を見る前にその点を確認しよう。では例1の論考の該当箇所を引用する。
次回の記事で取り上げる2つの論考(例2,例3)での同様の箇所も挙げておこう。
以上の例からも窺えるように、「生理的に無理」の概念を用いるのは、殆ど女性である。
2. 「生理的に無理」の説明不能性
「生理的に無理」の概念には「なぜそうであるのか説明がしっかりできない」という説明不能性への指摘も、どの論者にも共通してみられる。例1の論考の該当箇所を確認しておこう。
3. コンプレックスによる説明図式
さて、これから例1の論考を見ていこう。冒頭部によれば、例1の論考はコンプレックスによる説明図式を採用している。コンプレックスが背景にあって、同族嫌悪、嫉妬や羨望により不快感が生じて「生理的に無理」となるとしている。
以下にそれを示した箇所を引用しよう。
引用部を見る限りでは、コンプレックスによって生じる嫌な感情が「生理的に無理」の感覚に大きく関わるように書かれている。
しかし、そもそも論として「コンプレックスが関与しているケース」を「生理的に無理」と判断して良いのか、という問題がある。コンプレックス自体は生理学上の概念ではない。つまり、なんらかの生理的現象と直接的に関係するようなものではないのだ。そのような概念であるのに、コンプレックスを背景とする問題を「生理的」と判断するのは、概念の使用法あるいは用語の使用法が間違っていると私は思う。
ここでコンプレックスの意味を確認しておこう。
先に引用した例1の論考の箇所から例1の論者は、コンプレックスの語を上の辞書の2の意味で用いている。つまり、「(複合的な)劣等感」の意味でコンプレックスを用いる。
例1の論者は、辞書の1の意味である「(複合的な)愛着」の意味ではコンプレックスの語を用いていない。辞書の1の意味においては「生理的に無理」とされる人物の具体例として真っ先に挙げられた「マザコン気質」は、まさしくマザーコンプレックス気質の略であるから、辞書の1の意味ではコンプレックスに関わると言える。しかし、「自分の性格や容姿などにコンプレックスを持っていると、同じような相手に対して嫌な感情が湧いてくる」や「自分が手にいれたいのに手に入れられないものを持っている人に対して嫌悪感を抱く」との記述から判断して、複合的な愛着概念としてのコンプレックス概念ではないと考えられる。
また、ここで先に引用した箇所のコンプレックスに関係する記述の箇所を抜粋し、(例1の論者のいう所の)コンプレックスが関係するときの「自分と相手」の関係(=彼我関係)の構造を考察しよう。
大前提として、例1の論者のコンプレックス概念は劣等コンプレックスを指す。したがって「自分が劣っている立場にいる」との自覚があるということだ。ただし、このとき客観的に劣っているかどうかは重要ではない。主観的に自分は劣っていると考えていることが劣等コンプレックスにおいては重要である。
前段の「自分の性格や容姿などにコンプレックスを持っていると、同じような相手に対して嫌な感情が湧いてくる」という状況の構造は、「劣った相手-劣った自分」という彼我関係がある。相手が自分の鏡像のように感じられるから、相手の無様な姿が自分の無様さを見せつけられるようで不快になるのだ。この彼我の関係が無いならば、同族嫌悪の形でコンプレックスが関わることが無い。
後段の「自分が手にいれたいのに手に入れられないものを持っている人に対して嫌悪感を抱く」という状況の構造は、「優れた相手-劣った自分」という彼我関係がある。相手の姿がなりたかった自分の理想像のように感じられるから、理想(相手の姿)と現実(自分の姿)のギャップに苦しめられることになる。この彼我の関係が無いならば、羨望と嫉妬が生じるコンプレックスは存在しない。
さて「生理的に無理」というのは、その概念からすれば身体的現象(=生理的現象)によって忌避感が生じることを指す。したがって、「劣った相手-劣った自分」や「優れた相手-劣った自分」という彼我関係は、必ずしも必要ではない。
この認識は例1の論考の論者にとっても同じであるようで、例1の論考で生理的に無理な対象として挙げられた具体例を見る限り、コンプレックスが関係している事は必須ではない。例1の論考の冒頭で「コンプレックスを持っていると・・・嫌な感情が湧いてくる」と提示されているにもかかわらず、コンプレックス以外の要因が主要因で不快感が生じている具体例を挙げている。
これから「生理的に無理」とされた対象に関して、コンプレックスが関係していることが必須でないこと、あるいは例1の論考の解説を読み解く限り論者自身の判断においてコンプレックスが必須でない事を確認する。そして、例1の論考において「生理的に無理」とされた対象に関して、それが「生理的に無理」と認識されることの是非を検討する。
4. 「生理的に無理」とされる具体例
さて、どのような具体例を挙げられているか見よう。文末のまとめの部分で具体例が一覧になっているので引用する。
これから個別に、具体例とコンプレックスの関係、および具体例に「生理的に無理」の概念を用いることの妥当性を見ていく。
4.1 マザコン気質
まずは例1にも登場した「マザコン気質」を取り上げる。例1の論考の「マザコン気質」についての解説箇所を引用しよう。
男性の「マザコン気質」が女性の同族嫌悪のコンプレックスと関係するとなれば、対応するのはファザコン気質の女性がマザコン気質の男性を「生理的に無理」とする場合であるだろう。マザコン気質自体に対して嫉妬したり、劣等感を女性が抱くことは考えられないので、コンプレックスが関係するとすれば、そのケースといえる(ただし、マザコン気質の男性の母親に対しては嫉妬することがひょっとしたらあり得るかもしれないが、男性自身や気質自体に嫉妬することはない)。
だが、マザコン気質に「生理的に無理」と感じている女性がファザコンなのかといえば、解説文を読む限りそれも違う。解説文はマザコン気質に女性のコンプレックスが関わる話ではなく、それ以外の要因で不快感を感じているとしか読み取れない。
諦めずにもう少しコンプレックスが関係するか検討しよう。同族嫌悪の側面をもう少し掘り下げる。
女性自身が自分の母親に依存していることが多いために、マザコン男性の姿が母親に依存する自分の姿の鏡像のように感じるから、マザコン男性を嫌うという可能性はある。つまり、自分が母親に依存していることがみっともないことだとの価値判断を前提として、その自分の姿を見せられるかのようなマザコン男性に対して不快感を覚える、という形であればコンプレックスは関わる。
だが、解説文を読むとそのような形で女性のコンプレックスが関わるようにはやはり読めない。つまり、マザコン気質を忌避する判断において、コンプレックスは関与していないと思われる(※1)。
次に、「マザコン気質」と身体的現象(=生理的現象)について考えよう。
例1の論考の解説文に「妙に仲良く母親と電話している姿を見ると気持ち悪く」とあるが、この文中の「気持ち悪く」は身体的現象(=生理的現象)としての嘔吐感ではない。
我々の言語表現において、イメージを強化する目的で身体的現象に擬えて物事を表現する修辞技法がある。例えば、難しいタスクに「骨が折れるなぁ」と呟いたとき、身体的に骨折しているわけではない。仕事のヘマで「後始末を考えると、頭が痛いなぁ」との感想を抱くことがあったとしても、この内心の感想において用いられた「頭が痛い」は決して身体的現象としての頭痛を示していない。つまり、ヘマによって「頭が痛い」の感想を抱いたとしても「バファリンでも飲もうか」などと考える人間はいないのだ。
同様に、身体的現象など生じていない「気持ちの悪さ」とは、目の前の現実(あるいは認識対象)と自分の価値観から出てくる「こうあるべきもの」との間にズレが存在したときに発生する不快な感情のことだ。このとき、実際に胃の内容物が逆流するような感覚が生じている訳ではない。
一方、身体的現象としての気持ち悪さや嘔吐感は、身体的不調や五感に異常を感じるときに生じる。すなわち、身体の状態が通常の状態からズレているときに生じる(※2)。
「ズレによって発生する不快」を共有するために、身体症状としての嘔吐感が無いにも拘らず、現実と自身の価値観のズレから生じる不快感に対しても「気持ち悪い」という形容詞を共有するのだ。
つまり、「マザコン気質」を忌避するのは価値観から忌避しているのだ。したがって、「マザコン気質」を忌避することに対して「生理的に無理」と表現するのは、概念の使用法が間違っている。
4.2 ナルシスト
次に「ナルシスト」に関してみよう。ナルシストの解説箇所は以下だ。
ナルシスト気質自体がコンプレックスの対象になるとは考えにくい。それというのも、ナルシスト気質自体は羨望の対象にはならない気質であるし、ナルシスト同士が相手のナルシシズムをみて同族嫌悪を感じるようにも思えない(ナルシストが別のナルシストに感じ得る不快感は「私の方が優れている」というものに過ぎないだろう)。
ナルシスト以外の人間がナルシストのナルシシズムを不快に、あるいは恥ずかしく感じるのは、ナルシシズムが恥ずかしい行為との価値観によるものか、「そこまで大したもんじゃないだろ」という評価に基づく。
ナルシストの自己評価への違和感と不快感について譬え話で説明すると、自分の評価では「まぁまぁ」との評価の映画を「メチャクチャ凄い映画だった。泣いた!絶対見た方がいいよ」と絶賛している人がいるとき、「そこまで大層な映画でもないだろ」とある種の不快感を伴う反感が生じるようなものである。つまり、評価行為に関し、評価対象と評価が釣り合っていない場合、その評価行為は公平でないと感じて不快になる。この不快な感情は公平さについての価値観に基づく感情なので、コンプレックスとは関係が無い。
このケースでコンプレックスの対象となり得るのは、ナルシストがナルシシズムの土台として自信を持つ「能力・体力・容姿等」の何かに関してであろう。相手の能力・体力・容姿が優れている場合に嫉妬や劣等感を感じるために「生理的に無理」となる可能性はある。
だが、とりわけ女性が男性の能力・体力・容姿が優れているから劣等感を抱いて悪感情を持つ、というのは普遍的だろうか?男性が女性の能力に嫉妬するといった話は聞くこともあるが、「生理的に無理」と言うのはほぼ女性なのだから、やはりコンプレックスはあまり関係が無い印象を受ける。
もちろん、ナルシストの女性の能力・体力・容姿に女性がコンプレックスを感じる、ナルシストの男性の能力・体力・容姿に男性がコンプレックスを感じるといった形で、同性間ならコンプレックスが関与することがあり得るかもしれない。だが、解説文を読むとどうもコンプレックスが関与して「生理的に無理」となっているようには思えない。
解説文を読解すると、ナルシストが忌避される理由は「周囲を気にすることなく、自分の世界に没頭している」ことにある。解説文によれば、ナルシストは周囲を顧みないから忌避されているのであって、周囲側のコンプレックスは関係しない。
つまり、解説を読む限りナルシスト気質そのものにも、ナルシストの能力・体力・容姿等にもコンプレックスを感じてはいないように思われる。
また、「周囲を顧みないから忌避されている」との事態に対して、事態の発生理由を「生理的に無理」だからとするのは概念の使用法に問題がある。相手が周囲を顧みないことで生じる不都合は、生理的な問題ではない。
4.3 マウンティングしたがる
具体例「マウンティングしたがる」に移ろう。例1の論考の解説箇所は以下だ。
上記でコンプレックスが関与するとなると、次の2パターンになる。
自分にもマウンティング気質があるため、同族嫌悪の感情を抱く
マウンティングで誇示された内容に劣等感を感じる
この2つについては、どちらもあり得る事である。また解説の記述を確認してもコンプレックスが関わらないとは断言できない。
ただし、「他人を見下す」という行為に反発を抱くのは、コンプレックスの有無に関係なく感じることである。もちろん、前述のとおり、コンプレックスが関与する場合もあろう。だが、マウンティングされたときの不快感を、マウンティングされた側のコンプレックスにすべて還元するのは無理があるように思われる。
次に、「マウンティングしたがる」と「生理的に無理」の表現について考えよう。
コンプレックスが関係して不快に感じるケースであっても、見下されることで不快に感じるケースであっても、身体的現象(=生理的現象)とは関係が無い。したがって、「マウンティングしたがる人」を忌避することに対して、「生理的に無理」と表現することは、概念の使用法が間違っている。
4.4 デリカシーがない
具体例「デリカシーがない」に移る。例1の論考の解説箇所は以下だ。
「デリカシーがない」でコンプレックスが関与するとなると、冒頭で提示された枠組み、すなわち、「自分も同じだから同族嫌悪を抱く」「自分に無いもので劣等感を感じる」で考えると、次の3パターンになる。
自分もデリカシーがないため、同族嫌悪の感情を抱く
自己の欠点を相手に指摘されたので、劣等感が刺激される
自分に払われるべき敬意が指摘内容ゆえに払われていないと感じて不快
この場合2と3については、あり得る事である。
しかし、場合1はあり得ないと考えられる。デリカシーがなくズケズケとモノを言う人というのは、自分がしている行為にコンプレックス=劣等感を抱かない。ズケズケとモノを言っている自分の行為が、「善くない行為、あるいは至らなさを示す行為」という自覚がないからこそ、そのような行為を悪気なく行っているのだ。一方、コンプレックスというのは、自分の短所・弱み、あるいは短所や弱みと思い込んだものに抱く感情だ。デリカシーがない人は、自分のデリカシーの無さを短所だとは自覚していない。自覚のない自己の特徴にコンプレックスは抱きようもないので、「デリカシーの無い他人」を自分の鏡像のように感じて同族嫌悪を抱くというケースは、ほぼ無いと見做してよいのではないだろうか。
ただし、遠慮会釈ない指摘で不快感を感じることに関して、コンプレックスが関係しないこともある。それは、ぞんざいな扱いによって生じる不快感である。
例えば、外食をしていた場合に店員からぞんざいな接客サービスを受けたならば客は不快に感じる。もちろん、店のランク等によって接客サービスの水準は異なる。ファーストフード店でフレンチのディナーを出すレストランの接客を求めるのは、単なる客の勘違いである。だが、フレンチのディナーでウエイターが「お客さん、注文は何?」との言葉遣いでオーダーをとったならば、たちまち客は不快になるだろう。海の家でヤキソバを注文するときなら同じ言葉でオーダーを聞かれたとしても不快にはならない人であっても、フレンチのディナーでなら不快に感じる。
このぞんざいな扱いを受けたときの不快感は、TPOやその人との関係性といったもので決まる「あるべき扱い」とのズレによって生じる。自分が考える「あるべき扱い」よりも一段低い扱いであるから、ぞんざいな扱いと感じて不快に思うのだ。このとき、不快に感じている人は相手の自分に対する敬意の不在に反応している。この「相手の自分に対する敬意の不在」というものは、不快に感じている側のコンプレックスの有無は関係が無い。
もちろん、場合3として挙げた通り、コンプレックスも大きく関与する場合もある。例えば、自己の経済状態が思わしくなくボロボロの服装で来店した際に店員からぞんざいな扱いを受けたならば、自己の経済状態に関する劣等感が刺激される。自分でもコンプレックスを感じている、貧乏ゆえのボロボロな服装で来店したから、このようなぞんざいな扱いを受けるのだと認識する。つまり、なにかしらの「ぞんざいな扱いを受けるに足る理由」の自覚があるときに周囲の人よりも一段低い対応を受けたならば、「ぞんざいな扱いを受けるに足る理由」に関して劣等感を感じる。そういうケースにおいてはコンプレックスは関与する。
だが、TPOやその人との関係性といったもので決まる、あるべき扱いとのズレによって判明する、相手の自分に対する敬意の不在によって生じる不快感は、コンプレックスは特に関与していない。
また、自分に向かって発せられた言葉ではなくとも、デリカシーのない発言を聞けば、発言者に対して不快感を感じる。これはTPOを理解しない人間に対する不快感である。これもまたコンプレックスとは無関係である。
デリカシーの無い人間に対する不快感について、上記の2つは価値観に基づく不快感であってコンプレックスに由来する不快感ではない。
また、このようなものに関して、「『生理的に無理』と感じる」と表現するのは、概念の使い方として間違っている。
4.5 人の悪口や陰口が好き
具体例「人の悪口や陰口が好き」に移ろう。
「人の悪口や陰口が好き」でコンプレックスが関係するとなると、次の4パターンになる。
悪口や陰口が好きな他人を見て同族嫌悪により不快感が生じる
自己の短所が他人の悪口で再確認されるから不快感が生じる
自分の短所ゆえに悪口を言われる立場になるから不快感が生じる
悪口を言われることが不快であるが故に、コンプレックスが形成される
場合1について考えよう。デリカシーがない物言いとは異なり、悪口や陰口はそれを言っている当人にも「善くない行為」との自覚がある。すなわち、本人に聞かせるタイプの悪口は「相手を貶める意図で為される」ため、その行為の本質に悪性が存在していることの自覚がある。また、本人には聞かせないタイプの陰口は「本人が聞くと気を悪くする」との認識があるため本人の前では言わないのである。つまり、陰口の行為者には、その行為に何らかの形の悪が関係しているとの自覚がある。したがって、悪口や陰口が好きな人に「自分が好んで喋っている内容は悪口や陰口に当たる」との自覚があり、なおかつ、その悪癖が自分の短所であるとの認識があるならば、それはコンプレックスになり得るので、悪口や陰口を好む他人を見たときに抱いた同族嫌悪の感情はコンプレックスに関係する。
場合2と3に関して具体的に考えよう。例えば、悪口として「やーい、デブ!」と囃し立てられたとしよう。
場合2は、自分も太っていることが嫌だと感じているから「デブ」と言われると、自分も嫌だと考えている事を再確認してしまい不快になる、というものである。俗な言い回しで表現すると「うるせぇ!そんなことは分かっている!」と言い返したくなる不快感である。この「自分も太っていることが嫌」というのはコンプレックスに他ならないので、場合2はコンプレックスの関係する。
場合3は、太っているから「デブ」と囃し立てられてしまって不快に感じるというものである。これは場合2とは異なり、太っていること自体ではなく、太っていることによって悪口を言われる立場に立たされることを惨めに感じて不快になるものである。俗な言い回しをすれば「太っているからこんな目に合うんだ」と不快に感じることである。このとき、「太っていること」が自分の短所だとの自覚はあるため、それはコンプレックスになる。したがって、場合3はコンプレックスに関係する。
やや特殊だが、場合4は、自分のなんらかの特徴(必ずも負の特徴である必要は無い)を囃し立てられるがゆえに、コンプレックスが形成されるというものである。例えば、胸が大きい女子小学生が周囲から「おっぱいデカい!」とからかわれて、胸の大きさがコンプレックスになるようなものである。ただし、場合4は、事後的にコンプレックスが形成されるものであるため、囃し立てられた時点での不快感情は、時系列でみてコンプレックスとは関係が無い。
コンプレックスが関係していそうな観点に関する検討は以上である。この検討を踏まえた上で、例1の解説文を読解する。重要なのは以下の箇所だ。
この解説は「人の悪口や陰口が好き」である人間に不快感情が生じることに、コンプレックスが関係しないことを主張している。少なくとも例3の論者にとっては、「人の悪口や陰口が好き」である人間に不快感情が生じる理由に、コンプレックスは関係しない。
そもそも論として、我々が他者からの悪口や陰口を不快に感じる理由は、尊厳や威信を傷つけるからである。コンプレックスに限定した話ではない。そして、上記の解説にもあるように、「自分の威信や尊厳を傷つける高い可能性」を「悪口や陰口を好む人」が持っているから、彼らを我々は忌避するのである。そして、それは価値観に基づく忌避である。
また、価値観に基づく忌避を「生理的に無理な理由」で忌避していると捉えるのは、明らかに間違っている。
4.6 清潔感が無い
「清潔感が無い」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「清潔感が無い」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
まず当然だが、「他人に清潔感が無いこと」では、相手が優れているゆえに劣等感を感じる型のコンプレックスには成り様がない。なぜなら清潔感が無いことは明らかに劣った特徴だからだ。
では、同族嫌悪でコンプレックスが関係する型はどうか。「他人に清潔感が無いこと」を自分の鏡像のように感じて不快感を覚えるタイプである。このタイプは、かつての貧しかった日本では一般的にあり得たかもしれない。だが、現代日本において「清潔にしたい意志があるのだが、不可能なので清潔ではないのだ」という事態は一般的だろうか。もちろん、現代日本でも貧困家庭においてはあり得るかもしれないが、そうでもなければ、自分の意志で清潔な状態に保つことは十分に可能だ。つまり、たとえ清潔感の無さにコンプレックスを抱いたとしても、自分でサッサと不潔な状態から脱却してコンプレックスを解消できるのだ。したがって、同族嫌悪でコンプレックスが関係するケースも無いと言ってよい。
次に「清潔感が無い」を「生理的に無理」と認識することの妥当性に関してだが、これは当シリーズ別記事の「『生理的に無理』とは」の節で詳しく述べる。そこで結論だけ示す。「清潔感が無い」を理由として忌避する事態を「生理的に無理」と表現するのは、個体保存の観点から正しいと言える。
4.7 太りすぎ or 痩せすぎ
「太りすぎ or 痩せすぎ」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「太りすぎ or 痩せすぎ」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
まず当然だが、「太りすぎ or 痩せすぎ」では、相手が優れているゆえに劣等感を感じる型のコンプレックスには成り様がない。なぜなら太りすぎ or 痩せすぎは明らかに劣った特徴だからだ。
では、同族嫌悪でコンプレックスが関係する型はどうか。「太りすぎ or 痩せすぎ」を自分の鏡像のように感じて不快感を覚えるタイプである。このケースは十分にあり得る。だが、例3の解説を読む限りにおいては、このケースで不快感を覚えることを想定していないようだ。つまり、例3の論考においては、「太りすぎ or 痩せすぎ」に関してコンプレックスは関係しない。
次に「太りすぎ or 痩せすぎ」を「生理的に無理」と認識することの妥当性に関してだが、これは当シリーズ別記事の「『生理的に無理』とは」の節で詳しく述べる。そこで結論だけ示す。「太りすぎ or 痩せすぎ」を理由として忌避する事態を「生理的に無理」と表現するのは、種保存の観点からあり得る表現である。
ただし、解説文にある「見た目も暑苦しくて」や「不健康な印象」を理由にするのであれば、それは価値観に基づく忌避であるので、その忌避を「生理的に無理」とするのは間違いである。
4.8 口臭や体臭がキツい
「口臭や体臭がキツい」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「口臭や体臭がキツい」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
まず当然だが、「口臭や体臭がキツい」では、相手が優れているゆえに劣等感を感じる型のコンプレックスには成り様がない。なぜなら口臭や体臭がキツいことは明らかに劣った特徴だからだ。
では、同族嫌悪でコンプレックスが関係する型はどうか。「口臭や体臭がキツい人」を自分の鏡像のように感じて不快感を覚えるタイプである。このケースは十分にあり得る。だが、例1の解説を読む限りにおいては、このケースで不快感を覚えることを想定していないようだ。つまり、例1の論考においては、「口臭や体臭がキツい」に関してコンプレックスは関係しない。
次に「口臭や体臭がキツい」を「生理的に無理」と認識することの妥当性に関してだが、これは当シリーズ別記事の「『生理的に無理』とは」の節で詳しく述べる。そこで結論だけ示す。「口臭や体臭がキツい」を理由として忌避する事態を「生理的に無理」と表現するのは、個体保存・種保存の観点から正しいと言える。
また、個体保存・種保存の観点を抜きにしても、「よい匂い・悪い匂い」というものは、身体的(=字義どおりの"生理的")な評価である。「口臭や体臭がキツい」から忌避するのは、なんらかの価値観に基づく忌避ではなく、まさしくその匂いを身体が受け付けないから忌避しているのである。したがって、この理由で忌避することに対して「生理的に無理」と認識することは正しい。
4.9 食べ方が汚い
「食べ方が汚い」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「食べ方が汚い」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
まず当然だが、「食べ方が汚い」では、相手が優れているゆえに劣等感を感じる型のコンプレックスには成り様がない。なぜなら食べ方が汚いことは明らかに劣った特徴だからだ。
では、同族嫌悪でコンプレックスが関係する型はどうか。「食べ方が汚い人」を自分の鏡像のように感じて不快感を覚えるタイプである。このケースも恐らく無い。それというのも、食べ方というのは習慣であり、習慣に対して人は違和感を持ちにくい。それゆえ自分と同じ習慣の持ち主の行動は、ごく当たり前の行動と認識されるため、自分と同様の汚い食べ方をしている人を見たとしても、その人は普通の食べ方をしていると認識する。したがって、コンプレックスも関係しない上に、そもそも不快感が生じない。
次に「食べ方が汚い」を「生理的に無理」と認識することの妥当性に関してだが、これは当シリーズ別記事の「『生理的に無理』とは」の節で詳しく述べる。そこで結論だけ示す。「食べ方が汚い」を理由として忌避する事態を「生理的に無理」と表現するのは、個体保存の観点から正しい可能性があり得なくもない。食物を摂取する行動は、健康に大きく関わるために食べ方が衛生的に問題であるならば、個体保存の観点から「生理的に無理」と表現することも間違ってはいない。
ただし、例1の論考の解説にある「ステキな人だと思ってデートしたら、食べ方の汚さに恋心も冷めてしまった」という理由は、価値観に基づく忌避であるので、この理由から「生理的に無理」とするのは間違っている。また、「食べ方は、家庭環境にも大きく関係すると言われています。食べ方に対して厳しい家庭に育った人にとって、食べ方の汚い人を『生理的に無理』と感じるのは自然な感覚」と言う理由は、食事マナーという価値観に基づく理由であって、「生理的」な理由とは言いかねる。
4.10 異様に声が高い
「異様に声が高い」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「異様に声が高い」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
まず当然だが、「異様に声が高い」では、相手が優れているゆえに劣等感を感じる型のコンプレックスは恐らく生じない。なぜなら「異様」と称されるレベルの声の高さを優れた特徴と捉えるかといえば、かなり疑問だからだ。そのような「異様な声の高さ」を嫉妬する状況や人間がゼロであるとは言い切れないが、それでも相手の「異様な声の高さ」を優れたものと感じてコンプレックスを抱くケースは例外だろう。
では、同族嫌悪でコンプレックスが関係する型はどうか。「異様に声が高い」を自分の鏡像のように感じて不快感を覚えるタイプである。このケースもゼロではないだろうが、例外のケースだろう。そもそも「異様に声が高い」というのは、一般的水準から外れているから「異様」なのだ。通常見受けられる声の高さであれば「異様」という形容詞はつかない。つまり、少数の異様に声が高い人同士が出会うケースとしてしか、自分の声の異様な高さの鏡像としてコンプレックスを感じて不快に感じるケースはあり得ない。つまり、「異様に声が高い」ことに関して、同族嫌悪でコンプレックスが関係する型は一般的な人々にとっては関係が無い。
次に「異様に声が高い」を「生理的に無理」と認識することの妥当性に関してだが、これは当シリーズ別記事の「『生理的に無理』とは」の節で詳しく述べる。そこで結論だけ示す。「異様に声が高い」を理由として忌避する事態を「生理的に無理」と表現するのは、個体保存・種保存の観点から正しいと言える可能性がある。
また、個体保存・種保存の観点を抜きにしても、「異様に声が高い」というものは、身体的(=字義どおりの"生理的")な評価である。「異様に声が高い」から忌避するのは、なんらかの価値観に基づく忌避ではなく、まさしくその音の高さを身体が受け付けないから忌避しているのである。
ただし、この身体が受け付けない音の高さというのは、単なる好みを超えた物理的な音の高さを意味する。例えば週末に昼寝をしようとしたとき、子供の甲高い声で安眠が阻害されるような場合の表現として「身体が受け付けない」という。
一方で、単なる好みの声の高さでない、というのは嗜好の問題であって「生理的」な問題ではない。
4.11 セクハラ発言・行動をする
「セクハラ発言・行動をする」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「セクハラ発言・行動をする」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
「セクハラ発言・行動をする」でコンプレックスが関係するとなると、次の5パターンになる。
セクハラ発言・行動をする他人を見て同族嫌悪により不快感が生じる
セクハラ発言・行動をする他人を羨んで不快感が生じる
自己の性的魅力の無さがセクハラ発言で再確認されるから不快感が生じる
自己の性的魅力の無さから揶揄われる立場になるから不快感が生じる
セクハラ発言が不快であるが故に、コンプレックスが形成される
場合1はセクハラする他人が自身の鏡像のように見えるために不快感が生じるものである。このケースで同族嫌悪の形でコンプレックスが関係するとなると、「セクハラする自分の下品さ」にコンプレックスを抱いていることになる。しかし、セクハラする人間が自分の下品さにコンプレックスを感じているケースはあまり見かけない。セクハラする人間から感じられるのは、性的な露悪主義からくる優越感である。すなわち、自身の下品さへのコンプレックスなど殆ど感じない。
また、自身もセクハラする人間が他人のセクハラを見ることで不快感を感じるのは、TPOをわきまえずにセクハラをしていると感じる場合か、場合2で考察する嫉妬心からくる不快感である。つまり、「セクハラ発言・行動をする人」への同族嫌悪の形ではコンプレックスは関係しない。
場合2は、セクハラする他人を見て嫉妬心を抱くことで不快に感じるケースである。セクハラはある意味で性的奔放さを示すものだ。その他人の性的奔放さに対する自身の性的な意気地なさに劣等感、すなわちコンプレックスを感じて不快になる、ということはあり得る。この前提となる性的な露悪主義は男性文化圏でしばしば観察されるが、女性もまた、この性的な露悪主義を取る人も少なくない。例えば、日本でフェミニストと言えば真っ先に名前の挙がる上野千鶴子氏もまた自身の性的奔放さを露悪的に自慢する文章を公表している。そして、上野氏の女性ファンもまた性的な露悪主義の価値観を共有し、上野氏の性的奔放さを痛快に感じているようだ(上野氏だけでなく瀬戸内寂聴氏に関しても同様)。つまり、セクハラをする他人を見て、自身の性的な意気地なさにコンプレックスを感じるということはあり得る。
場合3は、自己の性的魅力の無さがセクハラ発言で再確認されるから不快感が生じるというものである。「自己の性的魅力の無さ」からコンプレックスを感じることは十分考えられるので、場合3はコンプレックスに関係する。因みに「自己の性的魅力の無さ」の例は、引用の中にある「アラフォー」や「そろそろ賞味期限が近づいている」といったものである。他人からの評価ではなく、自己認識において同様に考えているからこそ、再確認して不快に感じるというのが場合3のケースである。
場合4においてコンプレックスが関わるのは、自覚してコンプレックスを抱いている自己の性的魅力の無さから、そのことで揶揄われる立場になったことで不快感が生じる場合である。例えば、アラフォーになっていることに対して引け目を感じている女性が、趣味でロリータファッションをしていたとき「アラフォーが無理すんな!」と周囲から揶揄されたならば、その笑いものにされる扱いによって不快に感じるだろう。いわゆる「年寄りの冷や水」と言われた年配者が不快に感じる状況と同様の状況だ。このケースにおいては当然ながらコンプレックスは関係する。
場合5は、セクハラによる不快感によってコンプレックスが形成されてしまうケースだ。だが、このケースは時系列でみて不快感が生じることにコンプレックスは関わっていない。場合2・3・4は「原因:コンプレックス→結果:不快感」という図式だが、場合5は「原因:不快感→結果:コンプレックス」との図式になるので、場合5においてもコンプレックスが関連してくるとはいえ、それは原因ではない。
以上で、「コンプレックスと『セクハラ発言・行動をする』」のトピックは終わりである。つぎに、「『セクハラ発言・行動をする』と『生理的に無理』」の問題を考えよう。
さて、そもそも「セクハラ発言・行動をする」に対してなぜ不快感情が生じるのかといえば、それは相手側の関係性の勘違いによって自己のプライベートな領域が侵害されるからだ。このプライベート領域の侵害で感じる不快感は、なにもセクハラの時だけに生じるものではない。
例えば、病院で人間ドックを受けているとき医師に「あなたの昨年の年収はいくらでしたか?」と聞かれたら非常に不愉快に感じるだろう。もちろん、何かしらの理由があるのであれば別である。しかし、特に理由が無いのであれば、自己のプライベートな領域が侵害されたと感じて不快になる。自身の健康問題というプライベート領域に関しては相手(=医師)と関係性を持っているが、自身の所得問題というプライベート領域に関しては相手(=医師)とは関係性を持っていない。関係性を持っていない自身のプライベート領域を相手が侵害したとき、不快感情が生じる。
また別の例で見よう。税務署で確定申告をしているとき、「あなたは心臓に既往症がありますか?」と税務職員から聞かれたとしよう。医療費控除などで関係があるならともかく、そういった事情も特にないのであれば、非常に不愉快に感じるだろう。その不快感は自己のプライベートな領域が侵害された故に生じる。自身の所得問題というプライベート領域に関しては相手(=税務職員)と関係性を持っているが、自身の健康問題というプライベート領域に関しては相手(=税務職員)とは関係性を持っていない。先の例と同様に、関係性を持っていない自身のプライベート領域を相手が侵害したとき、不快感情が生じる。
セクハラ発言が不快であるのは、相手とはそのような会話を交わす関係性が無いからだ。それゆえ、その範囲のプライベート領域が相手に侵害されたと感じるから不快になるのだ。
同様に、セクハラ発言で生じる不快感は、コンプレックス云々以前に、上記のプライベート領域への侵害の構造によって生じる。そして、この構造は価値観の構造であって、人間の身体的=生理的な構造ではない。したがって、この構造で生じた不快感の問題を「生理的に無理」な問題に還元するのは間違っている。
以上は「セクハラ発言」に関するものだが、これから「セクハラ行動、とりわけ接触を伴うセクハラ行動」に関して考える。
接触を伴うセクハラ行動は、結論から先に述べると「生理的に無理」と評してもよい行動である。それというのも、接触によって触覚が刺激されて身体反応(=原義の"生理的"な反応)が出る為である。因みに、接触によって触覚が刺激されて身体反応が出るというのは、セクハラに限った話ではない。具体的に考えよう。
例えば、理容師でも医師でもない人間(それらの人であっても業務上でないならば同様)に、首筋を刃物で撫で上げられたら、肌が粟立つ感覚がするだろう。この肌が粟立つ感覚は、刃物で首筋を撫でられることへの身体的な拒否反応である。そしてそれは、自分の意思とは無関係な反応である。
別の例でも考えよう。
例えば、無警戒でいるとき突然後ろから肩を叩かれたら、自分の意志とは無関係に「ビクッ」とする。この「ビクッ」とする身体的反応から「突然に後ろから肩を叩かれるのは『生理的に無理』だ」と評しても問題が無い。そして、この身体的な反応を根拠にして肩を叩いた相手に対して「突然、後ろから肩を叩かないで欲しい」と要求するのは、間違った行動ではない。
同様に、接触を伴うセクハラ行為によってセクハラを受けた側の意思とは無関係に身体的反応が現れる。そして、接触を伴うセクハラに関しては、この受ける側の身体的反応を根拠にして拒絶できる。
このような身体的反応は個体保存の観点から見た身体的な拒否反応であり、そして、この身体反応を根拠に相手を忌避する場合、それは概念の使用法からみて「生理的に無理」と言ってよい。
例1の論考の具体例「セクハラ発言・行動をする」についてまとめると、コンプレックスが関係する場合もあれば関係しない場合もある。また、セクハラ発言でプライベート領域が侵害されることから感じる忌避感は「生理的に無理」と評すべきことではない。逆に、接触を伴うセクハラ行動は「生理的」の概念からみて「生理的に無理」と評することは妥当である。
4.12 相手によって態度を変える
「相手によって態度を変える」ということがコンプレックスに関わるかどうかと、「相手によって態度を変える」ということが「生理的に無理」ということに当てはまるかどうかをこれから考えよう。
「生理的に無理」だとしている「部下には厳しいことを言っているのに、上司にはいつもペコペコしていたり、肩書や財産で人を判断して態度を変えたりする人」に関する例1の論者の評価は「あまり良い印象を抱きません」というものだ。つまり、そのような人物は「劣った人物」であるとの前提がある。したがって、「優れた相手-劣った自分」との彼我関係を必要とする、羨望や嫉妬が生まれるタイプのコンプレックスは、このケースには関係しない。
同族嫌悪の形でコンプレックスは関わるかを考えよう。「部下には厳しいことを言っているのに、上司にはいつもペコペコしていたり、肩書や財産で人を判断して態度を変えたりする」ことは善くないことだとの自覚がありつつも、「長い物には巻かれろ」との現実的対応から上位者にはへつらっていいるケースは十分に考えられる。そんな自分の状態を苦々しく感じている人間が、自分と同様の行動をとる人間をみて、自分の鏡像を見ているかのように感じて不快になる事態は当然起こり得る。このようなとき、コンプレックスは関わるだろう。
しかし、解説文を読むとどうもそのような形でコンプレックスが関わる事態を想定していない。「特に、自分の利益を優先して、あからさまに態度を変えるような人は嫌われるのは当然です」との見解を出せるのは、「自分はそうではない」との自己認識を前提とする。「そんなクズは嫌われて当然」とでも言いたげな表現からみて、自己嫌悪の変種としての同族嫌悪を想定しているのではなく、あくまでも自分とは異なる「クズな他者」を嫌っている。つまり、「劣った相手-優れた自分」という彼我関係が想定されている。このとき「劣った自分」という自覚を前提とするコンプレックスは関係してこない。したがって、例1の論考の論者の認識においては、コンプレックスは関わらないと言ってよい。
つぎに、「相手によって態度を変える」と「生理的に無理」との関係を考えよう。
この「部下には厳しいことを言っているのに、上司にはいつもペコペコしていたり、肩書や財産で人を判断して態度を変えたりする人」に対して「特に責任感や正義感の強い人」が忌避感を感じると解説文にはある。つまりそれは「責任感や正義感」といった価値観に基づいて忌避しているのである。
また、この「部下には厳しいことを言っているのに、上司にはいつもペコペコしていたり、肩書や財産で人を判断して態度を変えたりする人」を忌避する価値観は一般的にみられる。例えば、以下のような四字熟語がある。
揚雄は前漢末の碩学で、いまから2000年ほど前の人物だ。そのような昔の人物も提示した価値観からの忌避感が「相手によって態度を変える」への忌避感である。
価値観からの忌避は、当然ながら身体現象に根拠を持つ要因(=生理的要因)による忌避ではない。すなわち「生理的に無理」と評すのは不適切な忌避である。したがって、「相手によって態度を変える人」を忌避することに対して「生理的に無理」と表現した例1の論考の論者の概念の使用法は間違っている。
5.種保存の観点からの「生理的に無理」との見方
種保存の観点から「生理的に無理」と評する対象というものは考えられる。典型的には男性の「勃起しない・射精しない」という身体現象を根拠として「生理的に無理」と評する場合である。このケースについては、例1の論考も少しだけ触れている。
この種保存の観点から「生理的に無理」となる場合については、当シリーズの別記事において扱うとする。
当記事の終わりに
この記事では、「生理的に無理」と女性が主張するときの論考の一つの代表例として、
マナラボ「生理的に無理な人の特徴とは?|意味や判断基準、接する際の対処法も解説」
を取り上げた。当該論考において、女性が「それは生理的に無理なのだ」と挙げる具体的対象を検討し、本当に生理的要因で忌避されていることと、生理的要因では無いにもかかわらず生理的要因と詐称していることを区別した。また、当該論考での「コンプレックスを背景に生じる」との説明図式が妥当かどうかも考察した。
その結果、本当に生理的要因で生じている例もあれば、非生理的要因で生じたにも関わらず生理的要因で生じたかのように詐称されている例もあることが確認できた。
また、当該論考における「コンプレックスを背景に生じる」との説明図式に関し、論者自身がその説明図式を考慮せずに具体例を解説しているケースが多い事が明らかになった。
以上の考察から、「『生理的に無理』と女性が主張するときの論考」はかなり杜撰な思考で主張されていることが判明した。すなわち、それは「生理的に無理」と評価される側の納得など無視した思考に基づく主張が女性によってなされているということだ。
註
※1 もちろん先にも断っているように、コンプレックスの意味を劣等コンプレックスではなく、「複雑な愛着概念」としてのコンプレックスと考えるならば、マザコンはマザー・コンプレックスの略であるから、字義通り関係する。もし、この「複雑な愛着概念」としてのコンプレックスが関係するならば、マザコン男性が持っている「自分が持っていない、親密(過ぎる)母親-子供関係」に対して羨望と愛憎の念が入り交じり、複雑な嫌悪感が生じるということになる。しかし、そのような形でマザコン男性に女性が嫌悪感を抱いているのかといえば、かなり疑問である。
※2 身体的現象としての嘔吐は、体に害になるものを間違って飲み込んでしまったときに、体外に出してしまおうとする動物本来の防衛機能により生じる。毒物や腐ったものを食べると、臭いや味が脳内の嘔吐中枢を刺激して吐き気を起こさせる。また、身体感覚の異常・平衡感覚の異常・あるいはサイケデリックな色彩によって感じる酩酊感によって生じる吐き気もまた、身体の防衛機能が「この異常状態は摂取した食物の毒性が原因」と誤認して体外に出そうとする身体的な反応である。