ジェンダーを決めない子育てなのに「おもちゃのピンクのドレスは女の子のもの」だって?
ジェンダー論関連には興味関心があっても、私にとってトランスジェンダーの問題は関心の中心からは外れたテーマであるので、大抵は横目で眺めるといった態度を取っている。ただフェミニストのおかしな主張と同様に、トランスジェンダー関連でも奇妙な理屈が罷り通っているなぁ、と感じることにしばしば遭遇する。今回は、そう感じた以下のトランスジェンダー関連のニュースに対して批判していきたい。
トランスジェンダー関連のニュースに登場する考え方が奇妙に感じるのは、「世の中の『男女のジェンダーの枠組み』を金科玉条にして、それに人間の方の心の性別を合わせる」という思考をするところである。例えば上記引用で太字で強調した部分がそうである。
このような前提が確固としてあるからこそ、「男の子のものと女の子のものを合体させたような感じですよね」という意見が出てくる。
ジェンダークリエイティブな子育ての方針は「心の性別がまだよくわかっていないから、心の性別が男性でもあるいは心の性別が女性でも大丈夫なような、服装・おもちゃ等を準備しよう!」というものだ。そして、男の子が好きなジャンルとされるものが好きになっていけば身体の性別がどうであれ「あなたの心の性別は男の子なのよ」となり、女の子が好きなジャンルとされるものが好きになっていけば身体の性別がどうであれ「あなたの心の性別は女の子なのよ」となる。
ハッキリいって私には彼らの考え方がよく分からない。
「女の子が女の子として恐竜が好きではイカンのか?男の子が男の子としておもちゃのピンクのドレスを人形に着せて遊んだらアカンのか?更に言えば、その二つを混ぜ合わせるとなぜ子供の性別が不明となってしまうんだ?」と思ってしまう。なぜ興味関心と心の性別をリンクさせてしまうのだろう。
マザーグースの以下の詩がこの世界の真実だとでも言うのだろうか。
男の子は「カエルやカタツムリや小イヌのしっぽで出来ている」から、すなわち、カエルやカタツムリや小イヌのしっぽが好きだから男の子になるんだろうか。あるいは、女の子は「砂糖とスパイス、素敵な何かで出来ている」から、すなわち砂糖やスパイスや素敵なものが好きだから女の子になるんだろうか。
いやいや御冗談でしょう?
これまで男女のステレオタイプ的認識によるジェンダーバイアスが問題視されてきたのに、いまさら「恐竜-男の子」「おもちゃのピンクのドレス-女の子」の図式で子供の興味関心と子供の性別を結びつけるのは時代錯誤にも程がある。いくらそれが「心の性別」であっても、そりゃあヘンテコだ。
ちょっと譬え話でこのヘンテコさを示してみよう。
上の譬え話で示したように、本質的に性自認と結びついている訳でもないものと性別を結びつけるのはおかしいのだ。傾向として「Aのジャンルを好きな男性が多い」「Bのジャンルを好きな女性が多い」というものがあったとしても、その傾向から個々人の心の性別を判断するのは間違っていると私は思う。
このことをもっと具体的に考えてみよう。
ピンクの服が好きで、シルバニアファミリーのドールハウスで遊んで、主に少女漫画を読んでいても、性自認は男性であってもなんら不思議ではない。また性自認が男性であってもそれらが趣味でもなんの問題も無い。逆に、迷彩模様の服が好きで、ミニカーで遊んで、少年漫画を読んでいても、性自認は女性であっても何の不思議もない。そして、性自認が女性であってもそれらが趣味でも何の問題も無い。
つまり、子供の興味関心に合わせて服装やおもちゃを用意してあげることと性自認とを結びつける必要性は無いと私は思う。
この性自認の問題に関して、性自認を構成するアイデンティティ要素は、おそらく各個人で様々であるだろう。色彩の好みやおもちゃの趣味だけが性自認を構成するアイデンティティ要素である人間が居ないとは断言できないが、そういう例外的な存在を除いて基本的にそれらは必須の要素ではないだろうし、重要な要素であるようにも思われない。したがって、子供の興味関心に合わせて服装やおもちゃを用意してあげることと「ジェンダー・クリエイティブ」を結びつけて子育てする必要は無いだろう。
まぁ、もちろん私の印象論のレベルの話ではあるのだが。