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フロイトとエリクソンの発達心理学5:幼児期の発達課題
本稿は以下の記事の続編である。また、表題にある通り「フロイトとエリクソンの発達心理学」のシリーズ記事である。
前々回記事では1.5-3歳期においてフロイト理論・エリクソン理論が共に重視するトイレトレーニングを取り上げた。今回は前々回の考察を踏まえて、エリクソン理論における1.5-3歳期における発達課題・心理社会的危機・葛藤の克服・獲得できる徳について見ていきたい。
■1.5-3歳期「幼児期」の発達課題・心理社会的危機・葛藤の克服・獲得できる徳
エリクソンの発達理論のフレームワークは「各ライフステージ毎に『発達課題-心理社会的危機』の葛藤があり、それを克服すると獲得できる徳がある」というものだ。そこで、まず、幼児期における発達課題・心理社会的危機・獲得できる徳を提示しておこう。
幼児期 :1.5-3歳
発達課題 :自律性
心理社会的危機:恥・疑惑
獲得できる徳 :意志
1.5歳から3歳の幼児は、概ね移動がハイハイから歩きに移行しており、また、言語発達に関してもある程度の意思疎通が可能な水準となっている。つまり、「自分の意志」で行動することができる条件が整ってくる時期である。すなわち、保護者の言葉の内容をある程度は理解して自己の意思を言葉で伝える言語能力上の条件と主体的に行動する身体的条件が備わる時期なのだ。これらの条件が整ったことで幼児期の「自律性-恥・疑惑-意志」という、エリクソン理論の「発達課題-心理社会的危機-獲得できる徳」のフレームワークで捉えられるライフステージ上の課題が解決できるのである。
■自律性の獲得
さて、幼児期になると、自分で色々とできるようになり、また親の言っていることも分かるようになるので躾が始まる時期である。食事における躾・服装に関する躾など日常生活における躾が開始されるわけだが、その中でとりわけ重要な躾がトイレトレーニングである。このトイレトレーニングこそがこの時期のトレーニングの根本になっていく。
ではなぜトイレトレーニングが重要であるのか、他の食事や服装に関する躾との比較で見ていこう。
保護者から「ああしなさい。こうしなさい」と幼児が教示される点でトイレトレーニングもその他の躾も変わりはない。しかし、トイレトレーニングはその他の躾と異なり、幼児の理解力の水準で「保護者の示された事から逸脱した場合の良くない結果」が幼児自身にも明白である点が、他の躾とは異なるのだ。
他の躾における保護者の言葉、例えば「ご飯はキチンと食べなさい」「お野菜も食べられて偉いね」「お洋服を一人で着られてえらいね」は、食事を摂ることを指示されている、野菜を食べたことを褒められている、服を独力で着用できたことを褒めれれているといった、言葉が意味するところは幼児でも理解している。しかし、「なぜいま食事すべきなのか」「なぜ野菜を食べるべきなのか」「なぜ服を着るべきなのか」に関して、幼児の理解力では「そうすべき理由」が分からない。もちろん、「保護者が言っていることだから、やるべき」という理解はしている。だが、保護者の指示が持っている本来の意義については理解していない。
一方、トイレトレーニングに関しては異なる。トイレトレーニングに関しては保護者の指示が持っている本来の意義が、幼児の理解力で十分に理解できる。保護者が教示したオマルなりトイレなりで排泄せずに、オムツやパンツに排泄してしまったときは、その指示から逸脱した悪い結果がすぐさま現れる。すなわち、保護者からの指示の逸脱の結果として、糞尿が付着する生理的不快が自分の肉体に生じる。この「保護者の指示からの逸脱と悪い結果の因果関係」は、トイレトレーニング以外の躾とは異なり、幼児の理解力でも十分に理解できるのだ。
このトイレトレーニングにおける幼児の理解力でも認識できる「為すべきことを為さなかった場合に生じる悪い結果」という構造により、「為すべきとされたことを為す」という自律性が養われる。
■幼児期の心理社会的危機「恥の感覚」と「疑惑」について
また、幼児期の心理社会的危機の「恥」は、トイレトレーニングにおける特異性により生じる。排泄自体が幼児の能力でも「独力で完遂できる行動」であり、かつ、それが幼児であっても自覚できる。そしてそのことが、達成できなかった場合の「自己の能力不足」を幼児に痛感させる。また、トイレトレーニングの失敗の「結果の悪さ」は、幼児の理解力でも十分に理解できるものだ。この二つの特異性によって幼児は「悪い結果を齎した自分の能力不足」を明確に認識する。そして、糞尿による生理的不快さと自己の不甲斐なさの自覚に関して、「連合」という学習効果が生じることによって「恥」という心理社会的危機となるのである。
この「恥」の感覚はやがて他の食事や服装についての躾に対しても幼児は無意識に敷衍する。トイレトレーニングとは異なって食事や服装に関する躾は、直接的な生理的不快さを伴うものではないにもかかわらず、「為すべきを為す」を達成できなかったときの自己の能力不足の自覚は、トイレトレーニングによって生じた「能力不足と不快」との連合によって、「恥」という不快感を伴う心理社会的危機となるのである。
心理社会的危機の「恥」に関しては以上であるのだが、幼児期の心理社会的危機には「疑惑」もある。この「疑惑」について解説しよう。
この「疑惑」に関してだが、この心理社会的危機はトイレトレーニング以外の躾の「為すべきことから逸脱した場合の結果の悪さ」が幼児の理解力では認識できないことにより生じる。「なぜ今食べないといけないのか?」「なぜ好き嫌いしてはいけないのか?」「なぜ服を一人で着なければいけないのか?」等の疑問を幼児が抱いたとしても、その疑問に対する本来的な回答を幼児が理解することが出来ない。「パパが言っているから」「ママが喜ぶから」「パパが悲しむから」「ママが怒るから」等々の外的な理由は、幼児が抱いた疑問を完全には払拭しない。トイレトレーニング以外の躾では本来的な「なぜそれは為すべきなのか・なぜそれは為さざるべきなのか」が幼児には分からない。この「そもそも論の観点から幼児が抱く疑問」が、幼児期の心理社会的危機の「疑惑」である。
以上、心理社会的危機の「恥」と「疑惑」を見てきた。次に、この発達課題と心理社会的危機の葛藤、そして獲得できる徳について考えていこう。
■幼児期の葛藤克服により得られる徳「意志」について
幼児期の発達課題である自律性は「自ら為すべきを為し、為さざるを為さない」というものだ。しかし、為すべきを為そうとして為せない場合、あるいは為さざるを為してしまった場合は、心理社会的危機の「恥」が生じる。つまり、「恥」は自己の能力不足が明らかになってしまう可能性があるチャレンジにおいて生じる。発達課題「自律性」と心理社会的危機「恥」との葛藤は、このチャレンジから逃避せず乗り越えることで克服される。つまり、「恥を掻くかもしれないがやるべき事を自分はやるという"意志"」によって乗り越えるのだ。そして、その意識の下で実際にしっかりとやれた経験を幼児が積むことで、確固とした「意志」という徳を幼児は獲得する。
また、幼児は「それを為すべきである・それは為さざるべきである」と示される物事に直面する。しかし、幼児の理解力ではそれらの物事に関して必ずしも「そもそも、なぜそれを為さねばならないのか/なぜそれを為してはならないのか」が認識できるとは限らない。だが、そんな幼児の理解や納得と関係なく「為すべき・為さざるべき」は存在する。すなわち、幼児に心理社会的危機「疑念」が生じていても「それを為すべきである・それは為さざるべきである」は変わらないのだ。このとき、幼児が「『為すべき』とされているからやろう」「『為さざるべき』とされているから止めておこう」として行動するとき、それは「疑念」を乗り越える「意志」によって葛藤を克服している。そして、そのような意識の下でしっかりとやった経験を幼児が積むことで、確固とした「意志」という徳を幼児は獲得する。
この心理社会的危機の「恥」と「疑惑」はそれぞれ異なる形とはなるが、双方ともに克服した場合に「意志」という徳を幼児に獲得させる。
■「意志」と「幼児の納得」の関係
「意志」と「幼児の納得」との関係について、 保護者の指示の意義と幼児の納得とが直接結びついている例を用いて説明しよう。その際、保護者の指示からの逸脱によって強烈な苦痛が生じる場合が分かり易いだろう。
子供の安全に対する意識が高くなった現在ではあまり考えられないが、ひと昔前は幼児がいてもチャイルドガードの付いていないストーブを用いる家庭が大半であったのではないかと思う。当然、そのような家庭でも幼児には「ストーブを触っちゃダメ!」と教えていたことだろう。しかし、そんな保護者の言いつけを破ってストーブに触ってヤケドをして痛い目にあう子供も少なくなかったと思われる。
さて、当然ヤケドをした子供に保護者は再度「ヤケドするからストーブを触っちゃダメ!」と言いつけるだろう。大抵のヤケドをして痛い目にあった子供は言いつけを守って最早ストーブに触ろうとはしない。しかし、ヤケドをして痛い目にあった子供がストーブに関する保護者の言いつけを遵守することに「意志」の関与があると言えるだろうか。もちろん、「ストーブには触らないでおこう」という意識が子供に無いというわけではない。しかし、このときの「為さざるべきことは為さない」という自律性は、「為さざるべきことは為さない」ことに対する意志によって齎されているのではなく、ストーブによるヤケドへの恐怖によって齎されている。
一方、ヤケドの経験の無い子供が「ストーブを触っちゃダメ!」と言いつけられて守っている場合、「触ったらダメと言われているから触らない」という意志がある。たとえ「なぜ触ったらダメなんだろうな?」という疑惑が生じていたとしても「ダメなものはダメなんだろう」と意志によって自分を律しているのだ。
この例から分かるように、幼児期での葛藤克服で獲得できる徳「意志」はトイレトレーニングだけでは獲得することが難しい。
それというのも、排泄に関する「為すべき・為さざるべき」は生理的不快と直接的に結びついており、排泄に関する決まりごとの遵守は意志によって駆動されているとは言い難い。また、トイレトレーニングにおける失敗は「恥」と強い関係があるが、「恥を掻く可能性があってもチャレンジする」という要素はトイレトレーニングにはあまりない。もちろん、チャレンジの要素がゼロであるとは言わないが、他の躾よりも小さいだろう。
しかし、食事や服装についての躾に関しては、「為すべき・為さざるべき」が生理的不快と直接的には結びついていない。それゆえ、幼児にとっては「なぜそれをしなければならないのか/なぜそれをしてはならないのか」が理解できない場合が殆どである。つまり、心理社会的危機の「疑惑」が生じる躾である。この「疑惑」が生じていてもなお、保護者からの直接的なサンクション(=罰)によらず自律的行動ができるようになったとき、「為すべきものだから為そう・為すべきものでないから為さない」という意志が獲得されているのだ。
つまり、本来的な意味での「なぜそうしなければいけないのか?」という疑問、すなわち「疑惑」が生じ得る躾を適切にクリアして自律的行動ができるようになることで「意志」という徳が獲得できるといえるだろう。
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