男性の犠牲者や弱者を無視する社会の傾向
社会において「男性の弱者は無視されやすい」という傾向がある。この傾向は、男女問わず犠牲者が出ているときに顕著にみられる。「いやいや、そんなことはないよ」という反発に対しては、最近で最も数多くの犠牲者を出し、今も出しつつあるウクライナ戦争における最初期の指導者層に属する人達の発言という具体例で反論しよう。
ロシアが電撃的にウクライナに侵攻したときに発射された巡航ミサイルには「女性や子供だけ」に選択的に被害を与えるような特殊な機能が備わっているはずもなく、男女問わず被害を与えたはずである。したがって、「無実の(ウクライナの)女性や子ども」と同様に「無実のウクライナ男性」へも無差別攻撃が為され、「罪のない(ウクライナの)女性や子ども」と同様に「罪のないウクライナ男性」にも何らかの声(=訴えかけ)があるはずである。
しかし、ポーランド首相、駐日アメリカ大使といった指導者層の人間にとって、「(ウクライナの)女性や子供の犠牲者の存在や訴えかけ」は問題視するに値するものの、「(ウクライナの)男性の犠牲者の存在や訴えかけ」はその存在すら意識されない。当たり前だが、両者ともに「男性の犠牲者は居ない」とは考えていないだろうが、男性犠牲者は殊更に取り上げるに値しないとの認識が彼らの言葉に表れている。
もしも、「犠牲者」を考えるにあたって(男性を無視して)女性を殊更に重視する、ということをしていないならば、「子どもを含む無実の文民(あるいは市民)」「罪のない文民や子どもの声」となったであろう。
このような、なにがしかに関する犠牲者や弱者について考えるとき、女性を重視して男性を軽視する考え方が、モラヴィエツキ首相個人やエマニュエル駐日大使個人の特有の考え方かといえば、そのようなことはあるまい。それというのも、別の事件における別の人間の考え方でも同様の傾向がみられるからだ。
このことを男女問わず犠牲者が出た報道記事の取り上げ方で確認しよう。
さて、2019年のエチオピア航空302便墜落事故に関する記事での写真を見よう。掲載されていた写真は3枚である(註1)。
さて、2枚目の写真は飛行機の残骸しか写されていないので除外しよう。また、1枚目の写真についても個別の写真パネルは男女同数であるし、集合パネルについても写真に写っている部分をカウントすると若干女性が多いようであるが、男女均等に扱われているとよい。
しかし、3枚目の写真はどうしようもなく「女性の犠牲者」が強調されている。男性の犠牲者パネルと分かる3枚は「あぁ、犠牲者には男性もいるなぁ」と思わせる程度である一方、女性の犠牲者の4枚のパネルは写真の構図では前面に置かれ、彼女らの表情までハッキリと分かる。
もちろん、この手の報道写真は何枚も撮られるので、男性犠牲者を中心にした構図の写真も存在しているだろう。だが、それが事故報道記事の写真として使用されるか否かが問題なのだ。
当然ながら被害者について男女がほぼ同数存在している場合について、遺族中心の抗議活動で見られる遺影も男女同数存在しているだろう。それというのも、抗議活動をする遺族は被害者である自分の家族の遺影を持って抗議活動をしていているのであって、観衆や視聴者受けしやすい性別の人間の遺影を持って参加している訳ではないからだ。
したがって、カメラマンが抗議活動の様子をカメラに収めれば、そこで撮られた写真の何枚かは男性犠牲者を中心にした構図の写真となることも自然と出てくるだろう。だが、それらの男性犠牲者を中心とした構図の写真をチョイスせず、女性犠牲者を中心とした構図の写真がチョイスされている背景となる考え方が、なにがしかに関する犠牲者や弱者について考えるときに女性を重視して男性を軽視する考え方なのだ。
また別の例から「なにがしかに関する犠牲者や弱者について考えるときに女性を重視して男性を軽視する考え方」を見ていこう。
さて、次に日本の自殺問題での男性と女性の扱われ方の違いを見てみよう。
まず、厚生労働省自作対策推進室が作成している最新の『令和4年版自殺対策白書』から各年齢別の自殺に関するデータを見てみよう。因みに、「死亡率」とは、人口10万人当たりの死亡数のことである。
上の表を見てもらえば分かるように、自殺が死因第3位以内にある年齢層すべてで男性が女性を上回る。つまり、10-14歳の年齢層から50-54歳の年齢層に関して、死亡数でみても、10万人当たりの死亡数でみても、男性が女性を上回る。
ここで一つ注意をしておきたい。死者の総数として男性が上回っているという事実を踏まえた上で、死者に占める自殺者の割合でみれば10-14歳、15-19歳、20-24歳といった若い世代で女性が男性を上回る。あくまでもそれは「絶対的にも、人口比でみた死者数でも、男性の方が女性よりもが自殺で死んでいるが、死んだ人間の中で自殺が死因に占める割合を見れば男性よりも女性が高い」という話である(註2)。死因に占める割合は今回の議論において大した意味は無いのだが、この数値を用いて事実誤認の主張を行うフェミニストが居るので注意されたい。
さて、「若者に関しても男性自殺者の方が女性自殺者よりも多い」という点をおさえて、次のポスターを見てみよう。
このポスターは、NPO法人「再チャレンジ東京」が2014年度から実施している「いじめ・自殺防止コンクール」で2020年度の最優秀賞に選ばれた作品である。最優秀賞に選ばれたのもさもありなんと感じる良い出来のポスターだと私も思う。また、「凄くいいポスターだ!」という内容のネット記事が出るなどした話題性のあるポスターでもある。
だが、このポスターは「男性と違って女性は何も言えず黙っている状況に置かれているから、"もっとよく見て”気付いてあげて」というメッセージに受け取れなくもない。なんといっても東京五輪の森元首相の失言から「(男性と違って)女性は弁えさせられる」という社会風潮をフェミニストが痛烈に批判していたのだから、その文脈で受け取れなくもない。つまり、「男性ではなく女性が自殺の危険に晒されている」と訴えているとのイメージを生じさせるポスターでもあるのだ。
他のポスターも見てみよう。以下の3枚のポスターは、関西鉄道協会が認定NPO法人国際ビフレンダーズ大阪自殺防止センターと共同で制作したポスターのシリーズである。
他にもこのシリーズのポスターは何種類かあるのだが、ポスターのモデルは見た限り全て女性である。このポスターから生じるイメージによる救済対象は「心に傘が必要な女性」なのであって「心に傘が必要な男性」はちょっと想像しにくい。つまり、このポスターもまた「自殺問題は女性問題」とのメッセージを世の中に発信していると言える。
とはいえ、このシリーズで女性モデルが採用されている理由は、ビールを飲むのは女性よりも男性の方が多くてもビールの宣伝のポスターは女性がモデルを務めているのと同様の理由、すなわち「男性に注目して欲しいから、男性があまり関心をもたない男性モデルのポスターよりも、男性が注目しがちな女性モデルのポスターの方が効果的である」という意図から女性モデルを採用しているのかもしれない。もしそうなのであれば、先の見方とは異なり、このポスターは男性に向けたポスターであるといえる。
さて、これまで見たのポスターは言ってみれば民間の啓発ポスターである。そこで政府の自殺問題への認識がある意味で表れる政府のポスター等を見てみよう。まず、内閣府が過去(平成22年=2010年)に作成した自殺防止ポスターは以下である。
また、内閣府の平成26年度の自殺対策白書の表紙のイラストも見てみよう。
このどちらも言い訳できないぐらいに「自殺問題は女性問題」との認識が窺えるポスターであり、イラストである。このポスターおよびイラストの構図は相談する側もされる側も女性であり、男性が周囲の働きかけによって自殺の危機から救済される雰囲気を持っていない。つまり、男性はこのイラストから排除されている。それは取りも直さず、自殺から救われるべき男性が空疎な数値としての存在としてのみ認識されており、具体的なイメージが想起される救済の対象として男性は認識されていないということだ。
自殺対策白書を作成している厚生労働省自殺対策推進室は、日本における性別・年齢別の自殺に関する統計的事実を誰よりも正確に認識しているハズである。つまり、どの年齢層でも女性よりも男性が自殺していると知っていてなお、平成時代では「政策問題として問題視すべき自殺は女性の自殺」と認識していたということだ。
まぁ、もっとも最近では「女性視点だけのジェンダー論」ではなく男女双方に目配りするジェンダー論、それこそ「弱者男性」への問題意識も一般的になってきたおかげか、自殺問題は男女双方それも男性側の方が根深い問題であると政府も認識が変化してる様子がうかがえる。以下のイラストは令和5年度のものだ。
この右上のイラストなどは「自殺は男性の方が女性よりも遥かに多い」という事実がやっとこさっとこ周知されて問題視され始めた結果ではないかと思われる。
まぁ、それはともあれ自殺問題に関して社会は"自殺者の絶対数と死亡率で男性が女性を上回っている状態"であるにも関わらず、これまでは男性問題ではなく女性問題として扱ってきた。最近ようやく政府の姿勢が方向転換し始めた気配がある。
とはいえ、メディアは相も変わらず「(男性の自殺問題には触れずに)女性の自殺率が増加した」とのニュースを頻繁に取り上げることから見て、メディアはWOKE風味のフェミニズム的認識枠組みから抜け出せない、セクシズムに満ち溢れた姿勢でいる。
このことはなにも自殺問題に限定されない。
先に見たよう、メディアの事故や事件報道における犠牲者の写真の構図やそもそもの記事のテーマに、メディアのフェミニズム的認識枠組みから抜け出せないセクシズムが表れる。「悲惨な出来事に関して、雄々しく立ち向かうという要素が無いならば男性は悲劇のヒーローにはなれず、常に絵になるのは悲劇のヒロインである女性だけ」であり、フェミニズムに則った「被害者は女性」というクリシェが繰り返される。そして、そんなメディアの姿勢はこれからも「男性の犠牲者や弱者の無視」という社会の風潮を促進してしまうだろう。
これまで挙げた事例を傍証として、「男性の弱者は無視されやすい」という風潮があることが示せたのではないかと思う。そして、その風潮に対して一石を投じたのが「弱者男性」という問題の言語化ではないだろうか。
※この記事は「弱者男性」に関連するミサンドリー言説を開陳した牧師さんを批判する記事、「炎上したミサンドリストの牧師さん」の続編である、執筆中の「炎上したミサンドリストの牧師さん2」における、「弱者男性」の問題を言語化する意義について述べた箇所の一部が、非常に長くなり過ぎたために、独立した記事にしたものである。
註
註1「『飛行機墜落で、犠牲者は痛みを感じなかった』。2019年の事故でボーイング社が主張」ハフポスト(2023/03/19)2023/10/3閲覧
註2 現代日本において「死因に占める自殺割合でみて男性よりも女性が高い」という話は、「絶対的にも、人口比でみた死者数でも、男性の方が女性よりもが自殺で死んでいるが、死んだ人間の中で自殺が死因に占める割合を見れば男性よりも女性が高い」という話である。
もちろん、現代日本ではない社会において「絶対的にも、人口比でみた死者数(=死亡率)でも、死因に占める自殺割合でも、一方の性別が他方の性別を上回る」という事態は有り得る。だが、現代日本においてはそのようなことはない。
それにもかかわらず、この死因に占める自殺割合から「日本では10代から20代前半については女性の方が男性よりも自殺で死んでいる」と主張するフェミニスト(※フェミニズムに親和的なオーディエンスを含む)がいて、「アンタはデータの読み方を知らんのか!」と以前に論争になって閉口した。つまり、何にも分かっていないにも関わらず、自殺に関するマクロ的傾向について語りたがるフェミニストが少なからぬ数で存在している。
「死因に占める自殺割合」について解説は基本的に不要だとは思うのだが、ちょっと信じがたいフェミニストの理解水準の事情から、「死因に占める自殺割合」に関して自殺以外の具体例を用いて解説をしておこう。
さて、現在のウクライナでは、死因第1位は「戦死」であろうかと思われる。また、ロシアの攻撃によって破壊された医療施設、あるいは住環境や電力やガスの供給に関するインフラの劣悪な状態によって肺炎などで亡くなる人も増加しているであろう。とはいえ、その肺炎の増加は戦死の増加に比べれば少ないと思われる。このとき、ロシアのウクライナ侵攻前と比較して、現在のウクライナにおける「死因に占める肺炎の割合」は低下していると考えられる。
このとき、「現在のウクライナの肺炎に関する状況と以前のウクライナの肺炎に関する状況とを『死因に占める肺炎の割合の大小だけ』で比較した結果」から「肺炎に関して、ウクライナ国民はウクライナ戦争前には酷い状況に晒されていた」となるのか、と言う話なのだ。
当然ながら、そんなことは無い。ウクライナ戦争前の方が肺炎に関して、予防の視点でも対処の視点でも良好な状態にあったハズである。つまり、予防や対処の視点では、絶対数や人口比の死亡数(=死亡率)の方が「死因に占める肺炎の割合」などよりも遥かに重要であり、実態を表している。
正直な所、なぜこんなことを少なくないフェミニストが理解しないのか分からない。なぜ「日本において、10代から20代前半にかけては死因に占める自殺割合で見たら女性の方が男性よりも高いんだから、若い頃は女性の方が自殺の危険に晒されている」と言ってしまえるのだろうか。市井のフェミニスト達はなぜ「フェミニストにとって不都合な理屈であれば理解能力が格段に下がる」のか、不思議である。
もちろん、こんな低レベルの話はアカデミアのフェミニストはしていない(と期待したい)。しかし、アカデミアのフェミニストの「都合の悪いデータは"活動家としてのフェミニスト"という立場から隠す」という態度が、市井のフェミニスト達のこういう惨憺たる知的状況を齎しているのではないかと、私は疑っている。
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