見出し画像

妹尾ユウカ氏のおじさんパーカー論における価値観である分限(ぶげん)主義

 本稿は以下の二つの記事に出てきた、妹尾氏の"分限(ぶげん)主義"について確認する記事である。もともとは下の記事の一部だったのだが、長くなったために独立した記事にしたものが本稿である。

 さて、前々回記事("読解力の無さ1"記事)において、おじさんパーカー騒動の基になった動画に関して、主軸である「若者-おじさん」軸から文脈を捉えると以下の3つの文脈が動画にはあるとした。

  • Ⅰ.「若者視点での若者世代とおじさんが私的コミュニケーションを取るべきでない理由」の系列の文脈

  • Ⅱ.「年齢ステージ規範における"おじ自認"の位置づけと有り様」の系列の文脈

  • Ⅲ.若者との関係性とは独立の「年齢ステージ規範を前提とした具体的規範内容」の系列の文脈

 また、前回記事("読解力の無さ2"記事)では、おじさんパーカー"論争"における「おじさんの着る服としてのパーカー」という問題圏に限定して考察した。そして"論争"において重要な論点となる妹尾氏の問題は以下の3点にあるとした。

  1. おじさんがパーカーを着る意図の誤認

  2. パーカーが若者性を持つ服装との認識

  3. ファッションに表れた分限主義

 この二つの記事の相違に関して、混乱が生じているかもしれないので説明しておこう。

 "読解力の無さ1"記事では動画全体の文脈に着目している。つまり、「動画全体の話として、妹尾氏はこんな話をしていたよね?」という方向で、論争における妹尾氏の「キリトリされた」との反論への批判を行っている。一方、読解力の無さ2"記事ではおじさんパーカー論争での争点に着目している。つまり、「妹尾氏は『おじさんの着る服としてのパーカー』について、こんなことを言っていたよね?」という方向で、論争における妹尾氏の「キリトリされた」との反論への批判を行っている。

 批判において二つの方向性が出てきたのには、当然ながら理由がある。その理由とは動画と論争の中心的トピックが異なることである。大元の動画においてパーカーのトピックは中心的なトピックではない一方で、論争においてはパーカーのトピックが中心的なトピックになっている。それに対応して上記の二つの記事の方向性の違いとして、動画に焦点を当てるか、論争に焦点を当てるかの違いとなっている。

 本稿で"読解力の無さ1"と"読解力の無さ2"記事で述べたことを確認するのは、そのような方向性の違いはあれど共通する部分があることを認識するためである。

 動画での妹尾氏の主張の核心に「"服装を含めたおじさんの分(ぶ)=年齢ステージ規範"を守ること」が存在し、また論争における核心的な批判に「"おじさんが着る服を含めた、服装に関する分(ぶ)"を守ること」への批判がある。すなわち、動画では年齢についての分限主義がメインとなり、論争では服装についての分限主義がメインとなっている。

 つまり、おじさんパーカー論争に関して、妹尾氏の分限主義をおさえておくと、どちらの方向性の議論であっても問題の核心を見失くことはない。それゆえ、本稿では、動画の中での妹尾氏の発言を踏まえつつ、妹尾氏の分限主義を見ていくことにしよう。


妹尾ユウカ氏の「分限(ぶげん)主義」

■妹尾氏が分限主義的価値観を持っていることの確認

 ここで出てきた「分限」という概念の辞書的意味は以下である。

【分限】
1 持っている身分・才能などの程度。身のほど。分際。ぶげん。「—をわきまえる」
2 財産・資産のほど。財力。また、財力のあること。金持ち。ぶげん。「—者」
3 公務員の身分に関する基本的な規律。身分保障・免職・休職・転職など。
4 ある物事の可能の限度。また、その能力や力。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

 この「分限」との概念に関してだが、かつては日常的にも「分限(ブゲン)」の用語は用いられていた(例:金持ちを"おぶげんじゃ=御分限者"と言う)。しかし、いまでは公務員の分限処分(ブンゲンショブン)くらいでしか聞かない。とはいえ、この語が指し示す考え方が人々の間から無くなり、我々にとって遠い過去の考え方なのかといえば、それは違う。自覚的か無自覚的かは問わず、また年齢の上下も問わず、旧時代的残滓が色濃い保守的な価値観の持ち主は、いまでも分限主義的価値観を持っている。現代日本でも言葉としては馴染みのある、所謂「身の程を知れ!」「分を弁えろ!」という価値観は、現役の価値観として少なからぬ人が保有している。

 実際、動画の中での妹尾氏の発言から、彼女が分限主義的価値観を持っていることを確認しよう。以下は動画において特に彼女の分限主義的価値観が表れている箇所を文字起こししたものである。

妹尾:だらしなくないし、アピールしてないじゃないですか。主張がない。(CO)三浦さんみたいなおじさんとかはアイコンだと思うんで、主張してていいと思うんですよ。でも
天野:キャラっぽい存在・・・
妹尾:キャラっぽい
天野:キャラに合った服を、はい
妹尾:特に広告代理店の人とか何を勘違いしているのか、会社員なのにアイコンになろうとしている、大したことない人がめっちゃ居るなと思って。アレ結構キツいです
天野:というと具体的には
妹尾:○○の人とかで、全身ディオールのおじさんとかいるんですけど、本当にキツくて。なんかああいうのよく分からない。おじ云々の前にいろいろな自認ができてなさそう、みたいな
天野:なるほど、職業的に
妹尾:そうですそうです、何がしたいの?みたいな
天野:あとはあれですか、高価な服なものもありますね
妹尾:ああもう、気持ち悪いです、結構。なんか普通に給与ってだいたいわかるじゃないですか。会社員だったら。それで考えると、ここに全ベットしてんだろうなみたいな。「気持ち悪!」と思って。なんなのって。それでオシャレな人ってハイブランド全身着ているって気づけないじゃないですか、周りが。気付けるハイブラおじさんていうのはオシャレじゃない
天野:ああ、そうですね。はい
妹尾:(ジェスチャーしつつ)バレンシアガみたいな、おじさんって
天野:ブランドロゴ、はい
妹尾:ロゴドンジジイはキツイなって

動画「【老害おじさん化回避】若者と絡むな、パーカー着るな。“いいおじさん”のすべて【イケオジへの道】」における妹尾氏の分限主義的価値観が特に表れている箇所の文字起こし

 文字起こしをした箇所で注目すべきところは、太字で強調した「いろいろな自認ができてなさそう」という妹尾氏の発言である。系列Ⅱの文脈だけでなく、そもそも動画全体において中心的なテーマの一つが「おじ自認」である。したがって、「自認が重要であるとの価値観」は対談している天野・妹尾両氏に共通する価値観である。

 ではなぜ「おじ自認」を含む「○○自認」が重要であると二人は考えているのであろうか。更に言えば、自認されるべき対象の正体は何なのであろうか。このことを明らかにするために、文字起こしした箇所において具体的に示されてる自認の種類を列挙しておこう。

  • アイコン自認

  • 非アイコン自認

  • キャラ自認

  • 会社員自認

  • 大したことない人自認

  • 普通の給与所得者自認

  • オシャレ自認

  • 非オシャレ自認

 動画中に示された自認を見比べてみると、自認の対象が何であるかハッキリと分かるだろう。つまり、自認の対象は「分限(ぶげん)」である。先に挙げた辞書的意味「1.持っている身分・才能などの程度。身のほど。分際。ぶげん」での"分限"が自認の対象なのだ。したがって、以下の振舞は身の程を弁えない振舞とされ非難の対象となる。

  • アイコンでない人間がアイコンのように振る舞う

  • その人のキャラでないキャラのように振る舞う

  • 会社員なのに会社員でないように振る舞う

  • 大したことない人物なのに大人物であるかのように振る舞う

  • 普通の給与所得者のように振る舞わまない

  • オシャレでない人間がオシャレであるかのように振る舞う

 「人々は各人の分(ぶ)を遵守すべきなのだ」という価値観―—分限主義——に基づいて、妹尾氏はそれぞれを扱き下ろしている。この妹尾氏(および天野氏)の価値観である分限主義を理解すれば、天野氏が同意する「妹尾氏のおじさんへの要求の正体」が理解できる。彼女は、「アイコン・非アイコン・キャラ・会社員・大したことない人・普通の給与所得者・オシャレ・非オシャレ」といったものと同種の分限の一つとして「おじさんの分(ぶ)」があると考えているのだ。もちろん、「若者の分(ぶ)」もあるし、「子供」「おばさん」「お年寄り」といったものの分限も認識しているだろう。


■補論:森高千里氏のミニスカと木村拓哉氏のパーカーへの妹尾氏の評価について

 「(年齢的に"オバさん"である)森高千里さんのミニスカートはイタくないの?」といった質問を動画の中で天野氏は妹尾氏にしているのだが、この質問への妹尾氏の回答は"否"である。一見すると「オバさんの分(ぶ)」を遵守していないように見える「ミニスカを穿く森高千里氏」を擁護しているため、ダブルスタンダードのように感じる。

 しかし、妹尾氏が挙げた「ミニスカを穿いて"私がオバさんになっても"と歌っている」「体形を維持している」「恥ずかしそうにミニスカを履いている」といった理由をよくよく見ると、森高千里氏のミニスカはあくまでも「アイドル系女性アーティストのステージ衣装」という位置づけであることが分かる。そして、このときに用いられている判断基準は「ステージ上の女性アイドルとしての分(ぶ)」である。現役アイドルと遜色がない体形を維持していることから(一線ではないにせよ)アイドルと見做せる、(恥ずかし気に穿いていることから)プライベートでの服装としてではなくステージ衣装としてミニスカを穿いている、このような点に妹尾氏が着目しているところから、「オバさんの分(ぶ)」ではなく「女性アイドルの分(ぶ)」から「ミニスカートを穿いた森高千里氏」を妹尾氏がジャッジしていることが分かる。

 一方、「Supremeのパーカーを着たキムタク」に対しては妹尾氏が"否"のジャッジをしているのは、おじさんのプライベートの服装として「Supremeのパーカー」を捉えているからである。すなわち、アイドル系俳優としてのキムタクではなく、おじさんとしてのキムタクとして、「分(ぶ)を弁えていない」と妹尾氏は判断している。

 ただし、「森高氏はミニスカを用いて異性へアピールしていない」といった見当違いの理由も挙げていることから、恐らく妹尾氏自身は自分の分限主義的価値観をキチンと明示的に理解していないようにも見受けられる。

 もっとも、「森高氏はミニスカを用いて異性へアピールしていない」に関して、「アイドルとしてのオフィシャルな異性アピールはしているが、森高千里というオバさんがプライベートな意味で異性アピールをしていない」と補足すれば、見当違いの理由とはならない。しかし、補足説明がなければ明らかにおかしな解釈になる形で理由を挙げたころから、やはり妹尾氏は自分の価値観に関して明示的理解をしていないと言えるだろう。


いいなと思ったら応援しよう!

丸い三角
頂いたサポートは参考資料の購入費や活動費に充当させてい頂きます。