ロジャース派の自己概念理論5:大人の「重要な他者」である「恋人」の場合
本稿で見ていく自己概念理論の概念は「重要な他者」あるいは「重要な社会的他者」である。ロジャース派の概念の「重要な他者」を成人が獲得していく過程について本人視点から解説する。周囲の人間が主体をどう扱うか、どう見るかといった視点ではないことを断っておく。
まず、最初に「重要な他者」の概念内容を簡単に確認する。つまり、重要な他者とはどのような他者であるかを見る。そして次に、「重要な他者」に発生を論じる。シリーズ第3弾では乳幼児の例で考えたが、本稿では、部分的ながら成人においても同様であることを確認する。
■「重要な他者」の概念
シリーズ第2弾の記事の本論部分の冒頭で以下の「重要な他者」に関する私の解釈による定義を述べた。
シリーズ第2弾のnote記事で取り上げた「乳幼児にとって疑いようもなく『重要な他者』である親」に関して、この定義に基づいた考察を示したことで、「重要な他者」に関する以下の条件も明確に示せたと思う。
シリーズ第2弾のnote記事にて示したことを前提に、本稿で扱う成人にとっての「重要な他者」である恋人の場合を考察し、「重要な他者」の解像度を上げていこう。
■大人の場合における「重要な他者」:恋人
或る他者に関して、自分にとって「存在するだけで快状態に遷移させる他者」となるメカニズムは、古典的条件付けによることはシリーズ第2弾のnote記事でみた。そして、古典的条件付けは乳幼児という特殊な発達段階においてだけ生じる現象なのではなく、成人期においても同様に生じる。
この事に関して、一旦「重要な他者」の話から離れて古典的条件付けを理解しようとすれば理解に抵抗はないだろう。
例えば、梅干しやレモンを具体例として想起すればよい。梅干しやレモンを認識すると同時にそれらを齧ったときの酸っぱく感じた体験が何度か繰り返されることによって、それらが”連合"によって結びつき、もはや梅干しやレモンに焦点をあてて意識・認識するだけで、口の中が酸っぱくなったような感覚が生じる。また別の例として、子供の頃は平気だったにもかかわらず大人になると、毛虫を見るだけでゾワゾワする感覚もまた、毛虫に刺されて痛痒さで苦しんだ体験と毛虫の存在が古典的条件付けによって結びついたからそのように感じるのである。
この梅干しやレモン、毛虫に生じる現象が他者に対しても生じるのである。そして、酸っぱさやゾワゾワする感覚が生じるのと同様に「快さ」も生じるのである。
このことを、大人になって獲得する「重要な他者」の典型である「恋人」で考えよう。恋人に関するありきたりな言説において以下のようなものがある。
これらの言説は先に挙げた「重要な他者」の条件を恋人バーションに変奏したものだ。先ず1'.について、次に2’.について詳しく見ていこう。
現代社会に生きる多くの人々に関して、恋人が出来るとデートに出掛ける。レストランに行き美味しい料理を恋人と共に食べ、遊園地に行きジェットコースターに恋人と一緒に乗ってドキドキワクワクして楽しむ。あるいは、映画を一緒にみて心動かされた感想を恋人と共有し、風雅な景勝地に出掛け共に美しさに息をのむ。あるいは、もっと単純に性愛による快楽を恋人と享受する。
つまり、恋人の存在と快状態がワンセットになる体験を繰り返す。これはまさしく連合学習理論でいう古典的条件付けの学習に他ならない。古典的条件付けの学習によって恋人の存在と快状態が結びつけられると、もはや快状態を直接的に齎すものが何も無くとも、恋人の存在だけで快状態が実現できる。すなわち、梅干しを口に入れずとも梅干しを意識すれば口の中が酸っぱく感じるように、古典的条件付けが為されたとき、直接的に快状態を齎す他のものがなくとも、恋人を意識するだけで我々は快さを感じるのである。
恋人が傍に居るだけで幸せ・恋人と居ると心がポカポカする・恋人を感じると愛しさが溢れる等の状態は古典的条件付けによる学習の結果である。古典的条件付けによって、恋人と共にいる経験は状態を快状態に遷移させる経験となる。このことによって、恋人と共にいる経験は有機的価値付けによって高く価値付けられる経験となる。古典的条件付けにより生じる恋人の高い有機的価値こそが、恋人を「重要な他者」にするのである。
では、「2'.恋人とは愛し愛されるから幸せ。一方的通行の愛は幸せじゃない」について考えよう。
恋人同士は相手を愛するが故に、相手に対して笑顔を向ける、愛の言葉を囁く、プレゼントを贈る、相手の役に立とうとするといった行為を行う。一見すると一方的に相手を快状態にさせているだけのようにも見える。
しかし、それらの愛の行為は相手が返報性を持つことを意識的・無意識的に期待している。相手に笑顔を向けても相手はニコリともせず、愛の言葉を継げても知らん顔で、プレゼントはただ受け取るだけ、自分は相手の役に立とうと色々行動するが相手は何もしない、このような状況が継続したとしよう。このとき、例示した愛の行為を自分が行うことの意義を見失い、「本当にこの人は私の恋人なのだろうか?」と疑問を覚えるだろう。つまり、自分の愛の行為に対して何らかの反応が相手の愛の行為として返ってくると意識的・無意識的に期待しているのだ。
このことを具体的に理解するには、恋人とのメールやLINEの遣り取りを想像すればよい。何ら具体的な用件も無く恋人にメールやLINEのメッセージを送信するとき、そのメッセージの送信行為は相手からの返信のメッセージが来ることを期待している。単に一方的にメッセージを送りたいから送っているのではなく、(建前上は相手からの返信を期待していないと嘯いたとしても)相手からの返信が得られうると考えてメッセージを送る。それゆえ、相手からは梨のつぶてのときは「何で返信しないの!」と(直接に文句を言うか内心に留めるかはともかく)相手を責めるか、自分があまりにも取るに足らないメッセージを送ったために既読スルーされてしまったと自分を責める。内面的にせよ、外面的にせよ、この「責める」という行為が生じるのは「そうあるべきであるのに、そうならかった」という場合である。つまり、恋人同士という関係性において、自分のアクションには必ず相手がリアクションしてくれるとの信頼・期待・予期があるのである。
また、恋人が「重要な他者」となる場合に関して、相手側が返報性の原理を有していることが必要であることを理解させる文学作品としてO.ヘンリー『賢者の贈り物』がある。実際に、このことを確認してみよう。
夫は美しい髪を持つ妻のために大事にしていた金時計を手放して髪飾りをプレゼントとして買い求め、妻は夫が大事にしている金時計に似合う鎖をプレゼントするために美しい髪を売る。お互いのプレゼントは物質的意味においてプレゼントの目的を果たすことはできなかったが、相手に愛を贈り、また相手から愛を受け取るという意味において、もっとも賢明な贈り物となった。愛し合う二人の人間にとって、贈り物とは「愛あるいは思い遣りの交換」になることが重要なのだと示す文学作品である。
さて、上記の文章においては美しい言葉が飛び交っているが、よくよく見るとスキナー箱のネズミと何ら変わらない。スキナー箱におけるレバーが恋人なのであり、自らの思いやりや愛の行為がレバー押し行為なのであり、相手からの思いやりや相手の愛の行為が餌ペレットなのだ。そして、オペラント条件付けによってレバーを押すと餌ペレットが出ることを学習したネズミにとってレバーが重要であるように、オペラント条件付けによって「自らの思いやりや愛の行為」から「相手からの思いやりや愛の行為」が獲得できることを学習した人間にとって、「自らの思いやりや愛の行為」を向ける対象となる「相手である恋人」は重要になる。なぜなら、自らの状態を快状態に遷移させる、相手である恋人からの思いやりや愛の行為を、自らの思う時点で得ようとしたならば、自分の思いやりや愛の行為の対象としての相手である恋人が必要だからだ。
もちろん、相手の思いやりや愛の行為は相手の存在の上で成立している行為であるので、相手がそもそも居なければ「相手の思いやりや愛の行為」は存在できないという根源的な問題もある。しかし、それと同時に、「相手の思いやりや愛の行為」を引き出すための「自分の思いやりや愛の行為」をぶつける対象としても、その相手である恋人は必要なのだ。この自らの働きかけによって快状態を齎す行動を相手が取るという、ある意味での獲得手段としての重要性もまた、恋人を「重要な他者」とするのである。
以上を纏めよう。ロジャース派の「重要な他者」は以下の性質を持っている。
「重要な他者」自体が有機的価値を持つ
「重要な他者」は自発的に快状態を獲得しようとしたときの手段的存在となる
ここで少し、上記の誤解の生みやすい「手段的存在」という語について注意しておこう。それと言うのも、「手段的存在」とのイメージだけでどうにも悪く考えてしまう人がいるからだ。
まず、手段的存在とはそれ自身以外に目的となる対象が存在しているという意味でしかない。つまり、目的だけが大事で手段たるそれ自身に価値がないといったことは意味していない。具体的な手段的存在を挙げて説明すれば理解できるかもしれないので具体例で説明しよう。
手段的存在として最も身近なものは衣服と食事だろう。衣服は身体を保護し体温を調整する目的を持っている。では、その目的たる機能のみが重要で衣服それ自身には価値がないだろうか。もちろんそのようなことはない。個々の衣服が持つファッション性あるいは思い入れ等、直接的な機能以外の価値を個々の衣服は持っている。つまり、「身体を保護し体温を調整する」との手段としての価値以外にも価値を持っている。
あるいは食事を想像しればよい。食事は身体に必要な栄養素を摂取する目的を持っている。では、その目的だけが重要で食事自体には価値が無いだろうか。当然のことだが、目的も重要であることはさることながらそれら自体も重要である。つまり、味や見た目の美しさなどによって生じる食の楽しみといった「必要な栄養素を摂取する手段」以外の価値が食事には存在する。
つまり、手段的存在は目的たる対象があるにせよ、それ自体の価値についてはまた別にある価値であるのだ。ただし、この説明は手段的存在の存在価値が「目的以外の存在価値がない手段的存在は無い」といったことを主張しているわけではない。単に「目的以外の存在価値が有る手段的存在もあれば、目的以外の存在価値が無い手段的存在もある」という事を説明しているに過ぎない(※「目的以外の存在価値が無い手段的存在」としては自家用車に特に思い入れの無い人にとっての「クーラント液」等がそれに当たる
)。