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フロイトとエリクソンの発達心理学12:親のファルスと子のファルス
これまでのシリーズ記事で説明してきたファルス概念について「親のファルスと子のファルスは全く別物で、"ファルス"の語が同一の対象を指していない」と感じた人も多かったのではないかと思う。すなわち、「親を"力ある神"にする何か」と「自由自在に自己と快とを結びつける何か」とを"ファルス"のいう概念で言い表すのは間違っているのではないかとの印象が生じているだろうと予想する。ファルス概念の理解の難しさは両者の結びつきがよく理解できないところにあるのではないかと私は考えている。この両者の結びつきを理解するにあたっての鍵となる子供の感情がある。それは
「大人はズルイ」
である。ティーン時代に感じることの多いであろう「大人はズルイ」に関して、対象を「親」とりわけ「同性の親」に限定して理解したとき、エディップス期の重要概念であるファルスが理解できるようになる。
また、エディップス期(3-6歳期)と言えば「同性の親とのライバル関係、エディップス・コンプレックス」がクローズアップされることが多い。そして、当該シリーズ記事における私の議論において「同性の親とのライバル関係」や「エディップス・コンプレックス」は見えてこなかったと思う。これらについても本稿での議論を理解することで掴むことができるだろう。
■エディップス・コンプレックスについて
3-6歳期がエディップス期と呼ばれるのは、この時期に男児が「エディップス・コンプレックス」を抱くとされているからである。男児に関してはエディップス・コンプレックス、女児に関してはエレクトラ・コンプレックスという感情は「異性の親と一緒になりたい」という感情である。
ただし、その感情を一段深めて「異性の親と性愛関係を結びたい=近親相姦欲求」と解釈すべきかどうかについては流派によって異なる。フロイトの源流に近い流派は全てを性的エネルギーに還元して考えるためにエディップス・コンプレックス(エレクトラ・コンプレックス)を近親相姦欲求と解釈する。しかし、性的エネルギーに限定せず心的エネルギー全般として欲動を捉える流派においては、特段に性愛関係を強調しない「異性の親と一緒になりたい」という感情としてエディップス・コンプレックスを捉える。
更に言えば、異性の親を「自己に享楽を齎す存在」といった形の抽象的存在として解釈し直して、「自己と享楽とを結びつけたい」という欲動の原初形態としてエディップス・コンプレックスを捉える向きもある。すなわち、以前の記事(ラカン思想:ちょっとアレな用語)で述べた「死への欲動=タナトス」の原初形態がエディップス・コンプレックスなのだとする解釈もある。つまり、自己の生命と引き換えにしても叶えたい欲動へと進化したとき、エディップス・コンプレックスはタナトスになると言う訳である。
また、エディップス期は超自我が形成される時期である。したがって、「規範や価値観を押し付けてくる超自我への反抗」と「理想である超自我と同一化したいとの憧れ」という超自我に対するアンビバレントな感情が、具体的な存在である「同性の親」と「異性の親」とに分離して仮託され、それぞれの親に対する感情として意識されるものがエディップス・コンプレックスであるとして理解してもいいだろう。もちろん、同性の親に対する「反抗心と憧れ」のアンビバレントな複合的感情がエディップス・コンプレックスであるとする理解も、エディップス・コンプレックスの別の側面を言い表している。
■フロイト体験での「父親はズルイ」という感情
「エディップス・コンプレックス」の発見に関しては理論の創始者であるフロイト自身の体験が大きく関係している。有名なエピソードであるため、知っている人も多いだろう。ただ、知らない人もいるだろうから紹介しておこう。
フロイトの体験:母親の居る寝室に入ることを父親から禁止された
この体験によってフロイトは「同性の親を排除して異性の親を独占しようとする感情」を見つけ出した。フロイトの体験をより細かく流れに沿って分けると、「異性の親と居たい」から「異性の親と居ることを同性の親から禁じられる」を経て「同性の親を排除したい」という感情に至る一連の流れになる。この一連の流れを考察するなかで「ファルス」や「去勢」といったフロイト理論の概念が出てくるのである。
このフロイトが体験したことと同じ構造を持つ体験を「フロイト体験」と名付けて、その構造を考察していこう。そしてフロイト体験の考察にあたっては父親の名前をマスオ、母親の名前をサザエ、子供の名前をタラとして見ていこう。
フロイト体験における「異性の親と居たい」であるが、ここでの異性の親はサザエである。そして、サザエと居たいのはタラだけでなくマスオも同様である。また、フロイト体験における「異性の親と居ることを同性の親から禁じられる」は「サザエと居ることをマスオから禁じられる」となる。
さて、欧米文化圏の人間は欧米文化の慣習から夫婦の寝室に子供が入り込むことを親が禁じることに違和感は覚えないだろう。しかし、アジア文化圏の人間からすると親と居たいと希望する子供の欲求を禁止することに対して違和感を感じると言っていい。もちろん、「一緒に居たい」を「性愛関係を結びたい」という欲求と同一視する場合は、性愛関係の排他性から夫と妻との間に子供が入り込むことを禁じることは理解できる。しかし、子供の「親と一緒に居たい」という欲求が性愛関係と結びついていない場合はどうであろうか。アジア文化圏の人間からするとその場合の親の禁止は理不尽に感じられる。そして、それは子供の視点からは猶更理不尽なのだ。
上で述べたことを念頭に置いて、フロイト体験をマスオ・タラ・サザエの関係を見てみよう。
・マスオはサザエと一緒に居たい。
・タラはサザエと一緒に居たい。
・マスオがタラにサザエと一緒に居ることを禁じる
・マスオはサザエと一緒に居る
・タラはサザエと一緒に居ることができない
マスオとタラの両者は同一の欲求を持っているにも拘らず、その欲求が充足されるのはマスオだけであり、タラは欲求が充足されていない。そして、タラの欲求充足を禁止したのは、自分だけは欲求充足しているマスオなのである。このときのタラの感情を言葉にするなら以下になるだろう。
「パパはズルイでーす!」
ファルス概念を用いてフロイト体験をタラの視点から考察しよう。
マスオもタラもサザエと一緒に居たいという欲求を持っている。マスオは「自由自在に自己と快とを結びつける何か=ファルス」を保有しているために、サザエと一緒にいることができるとタラは認識する。一方で、タラは「自由自在に自己と快とを結びつける何か=ファルス」を保有していないために、サザエと一緒に居ることができないとタラは認識する。
また、「サザエと一緒に居ることはダメ」とタラはマスオから禁じられるが、タラからするとなぜ自分がサザエと一緒に居ることはダメなのかサッパリ分からない。そんな理由がサッパリ分からない禁止命令を自分が押し付けられるのは、マスオが"力ある神"であり、そして「親を"力ある神"にする何か=ファルス」をマスオが持っているからとタラは認識するのである。
つまり、「自由自在に自己と快とを結びつける何か」であり、かつ「"力ある神"にする何か」であるファルスを、父親であるマスオは持っている一方で子供であるタラが持っていないために、マスオは欲求充足できる一方でタラは欲求充足ができないとタラは認識する。そして、なぜ父親であるマスオがファルスを持つ一方で子供であるタラが持っていないのかは、マスオがタラのファルスを「去勢」したからであるとタラは認識する。
タラにとってフロイト体験は「サザエと一緒に居ることができず欲求充足ができない」という体験だけでなく「父親であるマスオが持っているファルスを自分が持っていないことを認識する」という体験でもあるのだ。
そして、フロイト体験の構造において、父親であるマスオの位置づけは「サザエと一緒にいることを競うライバル」となり、かつ「自分が持っていないファルスを持つライバル」にもなるのである。
■フロイト体験の一般化;「親はズルイ」という体験
フロイト体験に関して、前述のフロイト自身の体験と登場する役者を変えただけの体験だとどうしてもセクシャルなニュアンスが漂う。そこでフロイト体験をセクシャルなニュアンスが漂わない、もっと一般化した体験にして考察していこう。
さて、子供が夜遅くまでTVを見ていると「TVをいつまでも観ていないで早く寝なさい!」と子供を叱る保護者は多いだろう。情景が思い浮かび易い、この状況におけるフロイト体験で考えていこう。
子供が夜8時を過ぎてもアンパンマンのビデオを観ていたとしよう。このとき「もう夜遅いからアンパンマンはお終い!お風呂入るからパジャマとパンツ準備しなさい」と子供に父親が言ったとしよう。もちろん親目線では極々真っ当な発言である。しかし、子供目線ではこの体験はフロイト体験になり得る。
・僕は夜遅くてもTV(アンパンマンのビデオ)を観ていたい
・パパも夜遅くてもTV(ワールドカップの試合)を観ていたい
・パパは僕に「夜遅くまでTVを観ることはダメ」と禁止する
・僕は夜にTV(アンパンマンのビデオ)を観ることができない
・パパは夜にTV(ワールドカップの試合)を観ている
このとき、子供と父親は「夜でもTVを観たい」という共通の欲求を持っている。もちろん、アンパンマンのビデオとワールドカップの試合というコンテンツは異なるが、TVを観るという同じ行為で充足される欲求である。しかし、父親の欲求は充足される一方で、子供の欲求は充足されない。しかも、子供の欲求充足を禁止することで妨げているのは、自分だけは欲求充足している父親なのである。このときの子供の心に湧きおこる感情は「父親はズルイ」というものであるだろう。なぜ父親はよくて自分はダメなのか子供にはサッパリ分からないだろう。そして、なぜ父親がそんな(子供の視点での)理不尽ともいえる禁止を自分にしてくることが可能なのか子供の認識能力の範囲においては把握できないのだ。
この自分には不可能だが父親にだけ可能にしている「自分の欲求を叶える力」「理不尽であっても自分の意志を他者に強制する力」が、まさしくファルス概念が指し示す「自由自在に自己と快とを結びつける何か」の持つ力なのであり、「親を"力ある神"にする何か」の持つ力なのである。そして、この「親はズルイ」と感じさせるフロイト体験によって、自分が持っていないファルスを親が持っていると認識することこそが、「親が自分にとってのライバル(≒超えるべき壁)」と認識する体験なのである。
この一般化したフロイト体験の考察から理解できるように、親を自分にとってのライバルと認識することに関して「異性の親-同性の親」という枠組みは必ずしも要する訳ではない事が分かるだろう。
ただし、当然ながら「異性の親-同性の親」という枠組みがフロイト体験において存在している方が同性の親とのライバル的関係が強まる。因みにライバル的関係を強化する要因は2つある。一つは「獲得できるのはどちらか一方だけ」という構造が生み出すライバル関係である。もう一つは、以前の記事(ラカン思想:ちょっとアレな用語)においても触れた「同性の親がもつファルスによって異性の親が引き寄せられる」という認識によって生じるライバル関係である。
■ファルスを保有したいという欲求と親へのライバル意識
ファルスと欲求充足の関係に関してなのだが、「ファルスが欲求獲得の手段となって欲求が充足される」という形態の欲求充足と「ファルスを保有することで『ファルスを保有したい』という欲求が充足される」という形態の欲求充足がある。当然ながらこの二つは異なる欲求充足である。
まぁ、別にファルスに限った話ではなく他の様々なものに関しても存在している違いである。
例えば、「バイクが手段となって充足される欲求(例:ツーリングの楽しさによって充足される欲求)」と「バイクを保有すること自体によって充足される欲求(例:バイク保有の誇示欲求)」は異なる形態で充足される欲求である。他にも「海外旅行が手段となって充足される欲求(例:日本では見ることのできない雄大な風景を見ることで充足される欲求)」と「"海外に行った"ということ自体で充足される欲求」である。
ただ、後者の欲求は充足されていない状態だと強烈に感じられることもあるのだが、いざ充足されると大したことではないように感じれられる欲求でもある。
話をファルスに関する欲求充足に戻そう。
親がライバル関係になることに関して、「自分が出来ないことをライバルである親がファルスを持っていることによってできる」と痛烈に感じるライバル意識も当然あるのだが、「自分が持っていないファルスをライバルである親が保有していること」自体から痛烈にライバル意識が生じることもある。
マウンティング合戦などでよくみられる光景なのだが「相手の持っていないものを自分は持っている」「相手が持っているものを自分は持っていない」という意識で生じるライバル意識である。
ファルスの保有に関してエディップス期の子供は、親に対して一方的に「相手が持っているものを自分は持っていない」と感じて、ライバル意識を持つこともある。これは「異性の親との排他的関係を巡る同性の親とのライバル意識」とは異なる機序で生じるライバル意識であるために注意が必要である。
■ファルス保有への欲求と充足
ファルスが持ち主に与える権能と認識されているものに「ルールを決めること」という権能がある。この認識に基づいて、エディップス期の子供は「親はファルスによって与えられた権能によってルールを定め、自分に制約を課す」と考える。そして、「自分もまたファルスを持つことでルールを設定する側に立ち、親が押し付ける制約や支配から自由に行動したい」と望む。表現を変えるならば「力を持つことで他からの圧力を撥ね退けて自由になりたい」という形での自由を望む欲求である。
先にも述べたが、この欲求は強烈な割にいざ達成していると実感としては大したことが無い。具体例を挙げてみよう。
「大人になったらハーゲンダッツ(あるいはレディボーデン)のパイントサイズを一人で食べてやる!」との野望を抱いていた人は少なくないのではないだろうか。あるいは「大人になってゲームを好き放題プレイしてやる!」との野望かもしれない。これらの野望は「ファルスを持ちたい」という欲求が具体的な欲求と結びついて表れたものだ。
さて、これらの野望を実際に大人になって叶えた人も少なくないだろう。しかし、あれほど子供時代に夢見たハーゲンダッツのパイントサイズも一日中好き放題にプレイしたゲームも夢を叶えてみると大したことがないように感じられた人が殆どではないだろうか。もちろん、ハーゲンダッツは美味しく、プレイしたゲームも楽しくはある。しかし、夢見た程のものかと問い返されると「うーん、然程でもないな」との感想になるのではないだろうか。
大人になって「ハーゲンダッツのパイントサイズを独り占めする」「一日中好き放題にゲームをする」と思い立って実行しようとしたとき、既にそのことに関するファルスを獲得している。言い換えると「力を持つことで他からの圧力を撥ね退けて自由になりたい」という形での自由は保有している。しかし、その自由は保有していても有難みをあまり感じない。
言ってみれば、健康な人にとっての「健康の有難みの実感」のようなものなのだ。それが失われているときには痛烈に感じても、充足されているときは大したものとは感じない。
エディップス期の子供が持っているファルス幻想に関して、シリーズの前々回記事でみた「おとうさんのまほう」のように合理的にタネが割れていくものもあれば、実際に野望を叶えて忘れ去られるものもあり、大人になってエディップス期の子供時代を振り返ってみても思い出せないことが少なくない。「叶う前に夢が持っていた力」は夢が叶った後に思い出すことが難しい。そのことが日常的経験からの実感による「エディップス期のファルス」の理解を難しくしている。
しかし、「子供からみた大人が持っている自由」を与える器官がファルスなのだと理解すれば、ファルス概念における「親を"力ある神"にする何か」と「自由自在に自己と快とを結びつける何か」という無関係のようにさえ見えるファルスの二つの性質が、一つの(仮想の)器官の性質であると分かるだろう。
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