「おじさんパーカー論争」で"キリトリ"と言っている人間の読解力の無さ1
おじさんパーカー論争に関して「もともとの妹尾ユウカ氏の主張がキリトリされて拡散されて論争になった」という反論がある。だが、この論争でキリトリを主張する人間は、大元の動画をキチンと視聴して確認していない人間か、読解力がお話にならないぐらいに低すぎる人間かのいずれかである。
因みに、おじさんパーカー論争の発端となった動画が載っている新R25の記事は以下である。
さて、「キリトリにより主張が改変されているのだ!」という批判自体は成立しうる批判である。しかし、キリトリという観点で批判するのであれば、一次資料に当たるのは批判の大前提となる。大元の炎上動画も載せてある新R25の記事の、対談での発言が改変されて少し要約された文章だけではなく、動画中の発言にもキチンと直接に当たって検証するのが、キリトリ批判といった種類の批判をする際の正当な手続きである。
もちろん、妹尾氏は自身のおじさんパーカーを巡る発言が炎上したことから、発言がキリトリされて自分の主張内容と明らかに異なる解釈をされていると反論してはいる。しかし、炎上に対する彼女の反論発言は、大元の「おじさんパーカー論争」でのキリトリ批判を行う際に参照する一次資料ではない。一次資料となる元々の動画の彼女の発言を解釈する際に参考にするかもしれない資料にすぎない。
本稿での議論の先取りとなってしまうが、前後の文脈もしっかりと押さえた上で大元の動画での彼女を発言内容を見れば、キリトリとの彼女の反論は全く信用に値しない。大元の動画での発言が炎上したために、それを取り繕うためのウソと断じても問題がないレベルである。
それにしても、大元の動画での妹尾氏の発言を大して検証もせずに、発言はキリトリされて炎上したのだとの彼女のエクスキューズをそのまま垂れ流すニュースも存在している。例えば、以下のような記事だ。
この記事に取り上げられている妹尾氏のXのポストは以下である。
このようなものを真に受けて「妹尾氏は発言をキリトリされて批判されているのだ!」という考えを持ってしまう人間が居る事自体は理解できる。しかし、事実かどうか非常に疑わしい情報を自分の中で抱えておくだけでなく、そんなデマまがいのことをまとまった文章で他者に発信しようとする人間もいるのだ。実際、「おじさんパーカー論争でのキリトリ批判」を展開する人間は、このnoteにも居る。
一次資料に直接当たっていないか、あるいは一次資料に当たったものの碌に読解できずに「彼女は発言をキリトリされている。キリトリされた発言によるデマに踊らされる愚民どもの多いことが嘆かわしい」といった類の賢しらな批判をしている人間をみると、「お前の方が愚民だろ?愚民批判がしたけりゃ鏡に向かってしとけよ」と言いたくなる。
とはいえ、キリトリの観点から批判している人間への非難が妥当かどうかの論拠を示さないまま罵倒し続けるのも良くないだろう。些か前置きが長くなったが、「おじさんパーカー論争」の発端となった動画を詳しくみることで、キリトリ批判は見当はずれの批判であることを確認しよう。
■炎上の発端である動画「【老害おじさん化回避】若者と絡むな、パーカー着るな。“いいおじさん”のすべて【イケオジへの道】」の文脈
まずは、どういうコンセプトで対談動画が作成されたのか、火元のR25の記事の冒頭から確認しよう。
上記引用から理解できるように、動画のコンセプトは「天野氏の相談に対して、妹尾ユウカ氏が回答する」というものだ。したがって、基本的には天野氏の相談内容が動画で為された妹尾氏の発言の文脈となる。また、天野氏は何を妹尾氏の相談における回答から得たのかいうと、引用において強調した以下の2点に集約されるものを得ている。
最適な"おじ自認"
"カッコイイおじさん"になる方法
もうこの時点で、妹尾氏のXのポストでの以下の反論が相当に疑わしくなることが分かる。なぜなら、天野氏の相談において商談のシーンがメインにくるとは考えにくいからだ。
とはいえ、「商談にパーカーを着てくるおじさんは、"おじ自認"がオカシイのだ」「商談にパーカーを着ることは、"カッコイイおじさん"とはならない」といった方向で関係する可能性は無くはない。まぁ、議論を先取りすれば、そんな文脈で妹尾氏は「パーカーの話」はしていない。
それはともかく、妹尾氏の発言の文脈を規定する天野氏の相談内容を詳しくみていこう。まずは、動画中で提示された天野氏の悩みを確認しよう。
さて、「新R25天野の最近の悩み」として挙げられたものを見てみると、大まかに以下の二つの悩みに分けることができる。
a."おじさんイジり"・"まだおじさんじゃないですよ待ちムーブ"への対処という、若者世代とのコミュニケーション上の悩み
b.おじ自認の在り方の悩み
この天野氏の悩みa・bに関して、記事の冒頭に挙げられた「最適な"おじ自認"・"カッコイイおじさん"になる方法」という、妹尾氏の回答から天野氏が得た2つのものと異なるのではないかとの疑問が当然ながら湧くと思う。ではなぜ、記事冒頭(※文章としての順番とは逆に、手順としては記事にする際の最後に作成される)で挙げられた、天野氏が妹尾氏の回答から得たものにおいて「天野氏の悩みa」に関するものが消えているのかを説明しよう。
実は動画における最終的な話として、妹尾氏は「おじさんは"おじ同士"でツルめ!若者村に入ってくんな!」という趣旨の結論を天野氏に告げるのだ。つまり、若者世代とは業務上必要となる範囲外の私的コミュニケーションを取るなと回答するのである。
したがって、「天野氏の悩みa」はその悩みが存在する前提条件が崩れ去る。なぜなら、"おじさんイジり"・"まだおじさんじゃないですよ待ちムーブ"というものは、若者とおじさんの私的コミュニケーションの中でしか生じない。その「若者とおじさんの私的コミュニケーション」自体をやるべきじゃないのだと妹尾氏は主張するのだから、"おじさんイジリ"へどう対応するかも、"まだおじさんじゃないですよ待ちムーブ"をどう避けるべきかも糞もへったくれもないのである。
妹尾氏の回答における論理構造がよく理解できない人もいるかもしれない。そこで譬え話で解説しよう。
「3Pシュートが上手くいかない」がA氏の悩みとして挙げられていたとしよう。このA氏の悩みに対するB氏の回答が「Aさんはおじさんなんだからバスケやんなくていいじゃん」というものであったとしよう。A氏がB氏の回答を尊重するのであれば、「3Pシュートが上手くいかない」という悩みは、それが存在する前提条件から崩れ去るのである。
この「3Pシュートが上手くいかないという悩みとバスケやんなくていいじゃんという回答」が持つ論理構造と同型の論理構造が、「おじさんイジりに適切に対応できないという悩みと若者と私的コミュニケーションを取ろうとするなという回答」が持つ論理構造なのである。
以上のことを理解すると、天野氏と妹尾氏の対談における3つの主系列の文脈が理解できるだろう。
Ⅰ.「若者視点での若者世代とおじさんが私的コミュニケーションを取るべきでない理由」の系列の文脈
Ⅱ.「年齢ステージ規範における"おじ自認"の位置づけと有り様」の系列の文脈
Ⅲ.若者との関係性とは独立の「年齢ステージ規範を前提とした具体的規範内容」の系列の文脈
したがって、「天野氏の悩みa:"おじさんイジり"・"まだおじさんじゃないですよ待ちムーブ"への対処という、若者世代とのコミュニケーション上の悩み」は系列Ⅰに属し、「天野氏の悩みb:おじ自認の在り方の悩み」は系列Ⅱに属する。そして、記事冒頭で示された「相談によって天野氏が妹尾氏の回答から得たもの1:最適な"おじ自認"」は上記の系列Ⅱに属し、「相談によって天野氏が妹尾氏の回答から得たもの2:"カッコイイおじさん"になる方法」は上記の系列Ⅲに属するのだ。
さて、炎上した「おじさんパーカー発言」が中心的に関係するのは系列Ⅰの文脈である。系列ⅡやⅢの文脈も妹尾氏の「おじさんパーカー論」に関係するのだが、あくまでも系列Ⅰの文脈で述べられた「パーカーには若者要素がある」という主張を前提とした議論となっている。そのことを頭の隅に入れつつ、それぞれの文脈を詳しくみていこう。
■Ⅰ.「若者視点での若者世代とおじさんが私的コミュニケーションを取るべきでない理由」の系列の文脈
まず、妹尾氏の系列Ⅰの文脈の議論の前提は「若者世代にとっておじさんと私的コミュニケーションを取ることは感情面でデメリットである」というものである。そして、系列Ⅰでの妹尾氏の回答はすべて若者の快不快がおじさんを拒否する根拠となっている。
動画での妹尾氏と天野氏の対談と関係ない話であるが、私的コミュニケーションについての判断において「快不快」のみで決めることが不合理となる場合が少なくない。
もちろん、私的コミュニケーションなのだから関係者の「快不快」が重要であることは間違いない。しかし、私的コミュニケーションを取らないと決定することは、他者の協力の必要性が出たときにコミュニケーションを取っていない相手からは業務上定められた協力以外の協力が得られない可能性が非常に高くなる危険性を引き受けることでもある。大抵の場合において、現役世代の年長者は様々なリソースを保有している。私的コミュニケーションによって形成される関係資本の観点を考慮に入れず、快不快の感情面からの判断で現役世代の年長者との私的コミュニケーションを拒否する場合、自分達よりも豊かなリソースを保有する年長者からの助力が得られなくなることを理解しておいた方がよいだろう。このことは「友人や家族なら手を貸すが、殆ど交流のない相手だと手を貸さない」という、老若男女問わず成り立つ人間関係における道理を、自らを顧みて理解し、それが現役世代の年長者となる相手であっても同様であることを想像すれば納得がいくことだろう。
話を元に戻そう。
妹尾氏の回答は全て「若者が不快なんだから、おじさんは若者と私的コミュニケーションを取ろうとするな」という理屈から出たものだ。取り上げる実際上のシーンの違いにより表現は異なれど、主張を支える理屈は変わらない。また、このことは妹尾氏が系列Ⅰの文脈で「"おじさん"のキツさ」を考察する際の認識枠組みでもある。
妹尾氏は「おじさんのキツさ」を「"若者"と居ようとすること」にあるとする。また、動画中で用いられる「おじさんのキツさ」との表現は「おじさんの不快さ」のカジュアルな表現に過ぎない。すなわち、一緒にいるおじさんによって不快が齎されることを、おじさんのキツさと表現している。このことは、彼女の以下の「"おじ"の2分類」からも確認することができる。
キツいおじ :若者とつるもうとするおじ
キツくないおじ:おじ同士でつるむおじ
この2分類から理解できることは「排除の不快さ」を妹尾氏が考慮していないことだ。彼女はフェミニズム的価値観から程遠い人物(※ただし、この手の人物はご都合主義でフェミニズムを利用することも多い)なので不思議ではないのだが、"おじ"を批判する際にフェミニストが槍玉にあげる「オールド・ボーイズクラブ」を称揚している。彼女が"キツくないおじ"として挙げた"おじ同士でつるむおじ"とは、同属性を持つ人間で構成される排他性を持った集団に属する人間である。部外者が私的コミュニケーションを取ろうとしても基本的に積極的または消極的に排除行為をしてくる人間である。したがって、この手の人間が齎す不快に「排除の不快さ=仲間外れにしてくる不快さ」がある。しかし、彼女はそういった不快さは考慮外に置くのだ。
これは妹尾氏が主張する若者にとっての「おじのキツさ=おじの不快さ」が、「おじとの間での私的コミュニケーションが存在していること」を成立条件としていることを示している。そして、その成立条件が無い場合は「おじのキツさ=おじの不快さ」は存在しないと、この系列Ⅰの文脈では彼女は見做している。この系列Ⅰの文脈を押さえると「私的コミュニケーションにおいて、若者がおじさんの何に不快になるのか」という問題提起に対する回答として、妹尾氏の主張を見ることができる。
彼女が主張する「おじさんを含めた一緒にいる年長者が、私的コミュニケーションにおいて若者に不快を齎す行為」は、次の2つの行為である。
[1]「若者要素を自分に取り込む=若者エキスを吸い取る」ことで"若くなろう"とする行為
[2]若者に対するマウンティング
つまり、「若者要素を自分に取り込むおじさん」と「マウンティングおじさん」が若者にとって不快な存在であると妹尾氏は主張しているのだ。また、"若い子とつるもうおじ(動画中の表現)"は基本的に[1][2]のいずれかの行為をしてくるので、おじさんは若者と私的コミュニケーションを取るべきでないと彼女は言うのである。
そして、この「若者要素を自分に取り込むおじさんが齎す若者の不快さ」という理屈が「40近くになってパーカーとか着ているおじさんって結構おかしいと思う」との妹尾氏の炎上発言に繋がっている。つまり、「おじさんパーカーの文脈」は基本的には、この文脈であると言ってよい。
実際、そのことを動画での発言を文字起こししたものから確認しよう。ただし、(ある意味で当たり前だが)動画における字幕ではなく、"実際の発言"の文字起こしである。このため、字幕とは異なる部分も存在している。
動画において妹尾氏の「パーカー」に関する発言の初出箇所を提示したわけだが、「パーカーに若者要素が入っているが故に、おじさんがパーカーを着ていると若者を不快にさせる」という主張を妹尾氏はしているのである。また、炎上発言の前後における会話の流れは「おじさんと若者の関わり」の話の流れであることが確認できる。
妹尾氏が炎上後にXで反論していたような「『商談の際などにパーカー着てる会社員のジジイなんなん?』って話」ではない。
もちろん、天野氏の「今日、10人いた会議でおじさん4人いてパーカー3人くらいパーカー着ていました」という発言が直後にはある。しかし、この天野氏の発言は言ってみれば「妹尾氏から結構おかしいと評された40代近いパーカーおじさんは身の周りに沢山居るのだが、それは異常事態なんだろうか。例えば、今日の会議でもオジサンの3/4がそうだったんだが・・・」という驚愕が言葉になったものだ。決して「会議の場でのファッションの観点からの"パーカー"という服装の是非」という文脈で出てきた発言ではない。
また、引用箇所の終わりの位置にある、妹尾氏の発言「この会社そういう人多いなってイメージすごいありますよ、"若い子とつるもうおじ"。だから、社をあげて問題にした方がいい」に関しても、「会社員あるいは社会人としてのファッションの観点からの"パーカー"という服装の是非」という文脈で、サイバーエージェント社の社員の服装の有り様が問題視されているわけではない。
あくまでも、「おじさんと若者の関わり」のトピックとして、パーカーが取り上げられているのだ。
もちろん、「デブおじさんが体形を誤魔化すためにパーカーをよく着ている。つまり、多くの場合におじさんの着ているパーカーはデブおじさんのだらしない精神性を象徴するから、おじさんの服装としてナシなのだ」という単発トピックも存在している。この単発トピックは「おじさんと若者の関わり」という文脈からは逸脱しているが、それでも「『商談の際などにパーカー着てる会社員のジジイなんなん?』って話」という文脈でのトピックでないことは明白である。
以上の議論から、おじさんパーカー論で炎上した妹尾氏の中心的発言の文脈が、「『商談の際などにパーカー着てる会社員のジジイなんなん?』って話」ではないことが明らかになったと思われる。
とはいえ、妹尾氏のおじさんパーカー論は、本稿で明らかにした文脈だけに登場するわけではない。「おじさんと若者の関わり」とは独立して為される、「年齢ステージ規範」との関係でも論じられている。彼女は、いわば"分限(ぶげん)主義”ともいうべき保守的価値観を持っている。その価値観からくる彼女のおじさんパーカー論もあるのだ。それも検討することで、やはり、彼女の話が「『商談の際などにパーカー着てる会社員のジジイなんなん?』って話」ではないことを、次稿で示そうと思う。
(※次稿に続く)