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知ってました? あの超有名文豪と医療の意外な関係

日本の文豪と聞いて誰を思い浮かべますか?
きっと人によって様々ですよね。

ただ、「森鴎外」が文豪であることに反対する人は少ないでしょう。
文豪をモチーフにしたライトノベルにも「森鴎外」というキャラクターが登場しています。きっと現代の若者への知名度も高いはずです。
今回は、そんな彼が、医学の分野で大きな影響力を持っていた、という話です。

医師一家

もともと鴎外と医療との関係は深いものがありました。
鴎外の父が石見国津和野藩に仕えた典医だったのです。
鴎外の長男も医師となり、台北帝国大学や東邦大学で教授に就任しています。
まさに医師一家です。

鴎外は東大医学部を卒業した後、父の医院を手伝うようになります。
その後、ヨーロッパ留学を経て、陸軍の軍医として活躍するのですが、その留学の体験から生まれた作品が、彼の代表作の一つである『舞姫』です。
鴎外の留学体験は実にドラマチックなものですが、それはまたの機会に。

鴎外の軍医としてのキャリアは極めて華やかで、当時の陸軍省医務局長にまで出世しています。作家としてだけでなく医師としてもトップクラスの出世頭だったのです。
漫画家の手塚治虫先生が医師免許を持っていたのは有名ですが、それに比べると鴎外が医者だったというのは知られていないのかもしれません。

脚気と白米

さて鴎外の軍医としてのキャリアの中でよく知られているのが、「脚気」という病気に関する話です。
脚気とは、ビタミンB1の欠乏によって引き起こされる病気で、多くの兵士がこれによって命を落としています。日露戦争では脚気によって死亡した兵士が3万人近くに上ったと言われていますから、軍にとっては大変な脅威だったのです(日露戦争における日本の戦死者数は8万4千人とされます)。

脚気は、かつては原因不明の難病だったのですが、鴎外は細菌感染が原因の病気だと考えていたようです。鴎外の属していた陸軍では、脚気対策に苦しむこととなります。

一方、陸軍と対立していた海軍では事情が違いました。軍医の高木兼寛が栄養素不足が脚気の原因であるという考えのもと、軍艦の乗員に対して食事を改善する試みを行ったのです。
ちなみに、海軍でカレーを食べるのは有名な話ですが、実はこれも脚気対策の結果と言われます。意外な話ですよね。

さて、食事を中心とした海軍の脚気対策は大きな成果を上げ、日露戦争中に脚気で死亡した兵士はわずか3人だったといいます。統計の取り方の違いもあるのかもしれませんが、驚きの成果です。陸軍とは、文字通り桁がいくつも違う数になっています。
なお、本記事に対するコメントでご指摘頂いたように、陸軍でも食事による対策は取られていたようです。

実は、1910年(明治43年)に、鈴木梅太郎博士によって、米ぬかに含まれるオリザニンという栄養素(ビタミンB1)が発見され、これは決定的な脚気の予防策となるものでした。しかし、当時は、脚気の原因は病原菌であるという説が大勢を占めていたようで、鈴木博士による画期的な発見が評価されるのに時間がかかりました。鴎外や陸軍の見解としての大勢も、脚気は伝染病という認識であったようです。

少なくない数の兵士が脚気に倒れ続けたことには複数の要因が考えられますし、もちろん鴎外だけの責任ではありません。特に鈴木博士によるオリザニンの発見がすぐに評価されなかったのは残念なことです。これは、ビタミンを最初に発見したのが実は日本人だったことも意味しています。機会があれば記事を投稿してみたいと思います。

神童と呼ばれ、学業優秀だった森鴎外ですが、この脚気に関するエピソードでは、ちょっと世間からの評判が悪いのです。
もちろん、彼の文豪としての功績を下げるものではありませんが、医師としての鴎外の意外な一面として、ご紹介しました。