本日の一曲 vol.365 チャイコフスキー 交響曲第1番 冬の日の幻想 (Pyotr Tchaikovsky: Symphony No.1, 1866)
ピョートル・チャイコフスキーさんは、1840年5月7日に現在のロシア連邦ウドムルト共和国のヴォトキンスクに生まれ、1893年11月6日に亡くなったロシアの作曲家です。ロシアの作曲家では一番有名な作曲家と言ってよいかと思います。
チャイコフスキーさんの番号付きの交響曲は第1番から第6番までのものがありますが、作曲年代とその時のチャイコフスキーさんの年齢は次のとおりです。
第1番ト短調 Op.13「冬の日の幻想」(1866年 26歳)
第2番ハ短調 Op.17「小ロシア」(1872年 32歳)
第3番ニ長調 Op.29「ポーランド」(1875年 35歳)
第4番ヘ短調 Op.36(1877年 37歳)
第5番ホ短調 Op.64(1888年 48歳)
第6番ロ短調 Op.74「悲愴」(1893年 53歳)
チャイコフスキーさんは、幼い頃、家庭教師からピアノの手ほどきを受け、音楽的才能を示しましたが、両親には音楽家にさせるつもりはなく、10歳のときにサンクトペテルブルクの法律学校に入学させました。14歳のときに母親のアレクサンドラさんがコレラで亡くなり、このことがトラウマになったと言われています。このころから作曲をするようになり、和声学や声楽を学びますが、19歳のときに法律学校を卒業し、法務省に文官として就職します。22歳の時再びロシア音楽協会のアントン・ルビンシテイン(Anton Rubinstein)さんの下で作曲を学び始め、まもなくアントン・ルビンシテインさんのクラスはペテルブルク音楽院に改組されました。そして、チャイコフスキーさんは音楽家の道に進むことを決心し、23歳のときに法務省を辞職して、音楽に専念するようになりました。
しかし、仕事は家庭教師くらいしかなく、貧しい生活の中25歳のときにペテルブルク音楽院を卒業し、26歳のときに、アントン・ルビンシテインさんの弟ニコライ・ルビンシテイン(Nikolai Rubinshtein)さんがモスクワ音楽院を創設し、チャイコフスキーさんは、この音楽院の講師として招かれ、それから12年間ここで教鞭をとったのです。
交響曲第1番は、モスクワ音楽院開講までの間、ニコライ邸に寄宿していたチャイコフスキーさんがニコライさんに進められて作曲を始めた曲です。しかし、作曲に没頭しすぎたせいか、貧しい生活からのプレッシャーなのか、チャイコフスキーさんは不眠症と頭痛に悩まされるようになります。ようやく曲を完成させても、アントンさんにやペテルブルク音楽院時代の先生だったニコライ・ザレンバ(Nikolai Zaremba)さんに楽譜を見せたところ、酷評されたので、第2稿を推敲したのですが、それでも目に叶わなかったのです。
そのため、初演は1866年に第2楽章だけモスクワで、1867年2月に第3楽章だけサンクトペテルブルクで行われ、全曲初演は1868年2月15日になりました。この演奏会での指揮はニコライさんだったのですが、先生たちの不評を買ったこの曲の演奏会は大成功だったのです。この曲は、ニコライさんに献呈されました。
しかし、チャイコフスキーさんは自作に満足しなかったため、この曲が再び演奏されることはなく、1874年にチャイコフスキーさんは第3稿の改訂を行い、チャイコフスキーさん43歳の1883年12月1日に第3稿による初演がなされるまで待つことになりました。現在は第3稿による演奏が一般的です。
第1楽章には「冬の旅の幻想」、第2楽章には「陰気な土地、霧の土地」という標題がついていますが、第3、第4楽章に標題はありません。
コンラート・ファン・アルフェン(Conrad van Alphen)さん指揮シンフォニア・ロッテルダム (Sinfonia Rotterdam)の演奏です。
チャイコフスキーさんの曲については、これまで3曲ほど取り上げましたので、こちらもご覧ください。
(by R)