【マインド】「どうせ私なんて」からの脱却
「根性がないんだから」。勉強をしない私への母の口癖だった。母は何げなく言った言葉だろうが私は心の中でいつも反論した。「どうせ私なんて」いつの間にか心の中での口癖になった。その先何十年も続く人生の中で私自身の逃げ道の言葉となったのである。
両親の実家は岡山県だったが私は生まれも育ちも神奈川県。母のお腹の中で元気に動き回り祖母や父に見守られ私は小さな産院で産声を上げた。
父と母、そして私の三人家族の生活が始まる。当時、両親が住んでいたのは借家。近所の年上のお姉ちゃんたちが私の遊び相手をよくしてくれた。
周りには同年齢の子がいないことから母は私を早い時期から幼稚園への入園を決めた。入園一日目、母は私が心配で涙がこぼれたらしい、そんな母の気持ちをよそに私は毎日が楽しかった。普段の生活の中では年上ばかりだったのに園では同志が増えた。
家庭では、両親に囲まれて私は言いたい放題。新しいおもちゃは店頭に並ぶと同時に父が買ってくる。いる・いらない、の選択肢は私にはなかった。世の中でそれらが流行になると私はすでに飽きてほうり投げていた。
そして転機は四年後、弟が生まれた。彼は病弱でひきつけをよく起こしていた。母の不在時は、隣人であるおばちゃんと私が弟の見張り番。両親の目はほぼ弟に向けられた。私はようやく一人になれた喜びもあったが、同時に両親を取られた気持ちも半分はあったはずだ。
母の希望で、髪は短く切られ紺色の洋服をいつも着せられていた。「可愛い男の子ね」とよく声をかけられた。「違う!私は女の子!」と反論した。いつの間にか憧れになっていったのは、ピンクのひらひらドレスに長い髪の女の子。「私も髪の毛伸ばして明るい色のお洋服が来たい」と母にリクエストしたことがある。「あなたには短い髪と濃い色が似あうのよ」と却下された。こうなったら徹底的に活発になろう!と心に決めたのは、小学校に入った時だ。学校では男の子たちとよく遊んだ。鉄棒が好きで、足を引っかけくるくる回るのが当時流行っていた。男の子に負けたくなくて、毎日くるくる回って練習をしていた。きっとこの頃は根性があったに違いない。
でも高学年になるとさすがに男の子と間違えられることに飽きがきた。共学育ちの母は、共学を強く勧めた。母の反発をしたくて中学からは女子校に入った。学校には根性がなくても勉強のできる子たちがたくさんいた。陰でこっそり勉強しているのに、「勉強なんてしなくてもできるんだから」と自慢げに言うことが私は気にくわなかった。すぐに使うことのない暗記ばかりの勉強は面白くなかった。そして成績は坂道を転げるように落ち始めた。
母は言った「友達に負けて悔しくないの?根性がないんだから」。何度このセリフを聞いたことか。もう飽き飽きだ。
先生から「絶対、大丈夫」と言われた大学までも落ち1度目の挫折を味わう。浪人かと思った時に最後1校が私を拾ってくれた。造形科、という私にないデザイン力を大きく要求される学部だった。でも実習が楽しかった。母の口癖の「根性がないんだから」という言葉が次第に減っていった。更に放送研究部に入部しマイクの前で話すようになる。今まで自分の中に押し込まれていたものが開花した感じである。
「アナウンサーになろう!」と決めたものの、惨敗。人生2度目の挫折を味わう。
当時の日本は定年まで一社で勤めあげるという風潮、いろいろな言い訳を積み重ね仕事を転々と変えていった。
根性を身に着ける方法もわからないまま社会人となりキャリアを積んでいった。
時間に少しずつ余裕ができてからは、フォトグラフ・マインドフルネス・ヨガ・心理学・コーチング・ライティング・簿記など、時間があれば新しい人間関係の中で学びを深める。昨日の自分より一歩学んだ今日の自分。知らない世界や人と繋がることが自分の人間性を高めてくれる。
昔を振り返り「私にもしも根性があったらば今の自分とは違う人生を過ごしているはず。キャリアを積んで現役キャリアウーマンかも」そんな私の想いに母は言った。「学びは一生続くからできる時にできることをやりなさい。頑張りすぎなくてよい。」
根性を結局もてないまま、ありのままの自分ができることを探せばよいと思えるようになってきた。
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