こけし浄瑠璃「はなこのおむこさん」南三陸 取材旅行記(2)
11月5日(土)
今日は、勉強の日です。今回の「はなこのおむこさん」は、長唄の塩原庭村さんにもお手伝いいただくので、二人でお勉強に行きます。
江戸時代末期に建てられた幕末郷士須藤家の邸宅、松笠屋敷というところで、午前中、台本のセリフを南三陸の方言に換えてくださる仲松敏子先生、工藤先生にご指導をいただきます。「ああ、津波のことはよく知っているよ」と仲松先生はおっしゃる。新たに台本に書いたセリフを読んでくださる「みんな、津波くっぞ!逃げろ!」その瞬間に、11年前の津波の日に戻ったような空気になって愕然として、鉛筆を持った手が震えました。
お昼になって、午後から宮城、岩手、秋田で歌われる「長持唄」を歌っていただく菅原正徳先生がお越しになり、仲松先生、工藤先生と我々も一緒にお昼とお弁当をいただきました。お昼を食べながら、菅原先生が「震災でおっかあが逝って、翌年嫁さんも亡くなってぇ…」と話された時に、その悲しみがあっという間に伝わって胸が塞がれそうになりました。再びあの津波の日が今日のことのようによみがえってきます。
私も塩原さんも、もう何も話せなくなって、ひたすらお弁当を食べて、感情を堪えていました。すると仲松先生が「早くに逝き過ぎたんだね」と慰めの言葉をかける。この人たちは、お互いを慰めることをよく知っている。何度も悲しい話を聞き、何度も慰めてきたここの人たちの会話がそこにありました。
長持唄は、お嫁さんが持って行く長餅(嫁入り道具をいれる長方形の箱)を担ぐ人が歌う祝言の歌です。
これが歌えるのは菅原さん、とコーディネーターをしてくださった阿部さんはすぐに思ったそうです。
しかし、菅原さんは津波のあと、一度も歌ったことがない。何度もお願いしたが、何度も断られたそうです。そこを阿部さんは、もの凄い粘りを見せてやっと承諾を得たそうです。そのことは仲松先生も、工藤先生も折込済み。
お昼のお弁当を食べ終わったあと、「さあ、もう一回、結婚式すっべ」と阿部さんと仲松先生が、新郎新婦になると騒いで見せて、机も片付けて、庭先から床の間の上座につくまで歌われる長持唄の雰囲気を作ってくださいました。
それは十年ぶりに今、初めて歌ったのではない。この日のために相当練習されたのがわかります。それでも自分では声量が無くなったと言い訳をなさる。しかし、菅原先生の長持唄を聴いていた塩原さんと私はまた涙が出そうで、それを堪えるのに必死でした。
私たちにとって、菅原先生は先生だが、本業は木こり、農業もなさっている。何でも上手くこなせる頭のいい人です。
夕方になって、今度は、カキ・ホヤの養殖をしている漁師の村岡賢一先生のところへお邪魔しました。昨日、浜辺に降りた志津川漁港から南に6キロほど行った折立漁港の人です。
津波で漁港が壊滅状態にありました。もういちど復興する時に、漁師さんたちに今までの利権を手放してくれと頼み、養殖の仕切り棒から必ず100メートル離して養殖しようということになりました。結果、今までの小ぶりのカキやホヤが大きく成長して、海水も濁らなくなりました。
そこまでの苦労は相当のものだった、と村岡先生は語る。はなこのお父さんは漁師だから結婚式の宴会の時は、大漁節かな?と思っていましたが、村岡先生曰く、「浜甚句」。みんなで酒飲んで、盛り上がって、歌い出す。手を叩き、箸で灰皿叩いて、歌い手を盛り上げる。卑猥な文句が盛り沢山で、これぞ漁師、男の世界とか、「今ではよくない歌です」と。しかし村岡先生も震災以来、浜甚句を歌ったことがないが、と前置きをして歌ってくださいました。
「今は漁業なんて儲かりませんよ。好きだからやってるだけです」とおっしゃるので、私は「好きってどういう風に好きなんですか?」というと「子どものときから船に乗って、魚を釣って、魚を釣るのが楽しいという気持ちだけでやってます」と答えてくださいました。
帰り道、コーディネーターの阿部さんは「長持唄なんてもう誰も歌わなくなった。浜甚句だって20年ぶりに聴いたかなぁ。長持唄も菅原さんが最後、浜甚句も村岡さんが最後の人だ。これは何とかせんと…」と頭の中でいろんなことが駆けめぐっているようでした。
<つづく>
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