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『アオのハコ』5話感想/気持ちをつかみ損ねる「ズレ」の重要性

アニメ『アオのハコ』5話視聴。大喜、千夏先輩、雛、3人はそれぞれ「相手の気持ち」を想像して行動する。でもそれはズレている。そのズレが物語を動かしてゆく。気持ちを想像するときに生まれる「ズレ」。それのせいで私たちは見当違いの努力をする。でもそれが無ければ、人と人の関係性は深くならない。そのズレは私たちにとって重要なものなのだろう。5話で感じた「ズレることの前向きな意味」について、思ったことをメモしておく。

#ネタばれあり

●大喜と千夏先輩の間のズレ
大喜は「千夏先輩が水族館に誘ってくれた気持ち」をあれこれ想像するが、千夏先輩の言葉で、それが見当違いであったことがわかる。千夏先輩は、大喜に「来年も再来年もある」と言ったことを気に病んでいて、大喜に謝罪をするが、大喜はそこまで気にしていなかったことを知る。このエピソードは一見、「お互いの気持ちの答え合わせができた話」のように見える。でもそれでは重要な要素が抜け落ちる。それは「自分の気持ちは自分でも分からない」という要素だ。
・千夏先輩は、大喜を誘ったのは「謝罪のため」と思っている。
・大喜は、千夏先輩の言葉をあまり気にしていない、と思っている。
そう思っていることは本当だろう。でもその自己認識が「正確なもの」だとは思えない。千夏先輩は大喜に惹かれ始めていて、それが彼女の行動を大きく左右している。大喜は千夏先輩の「あの言葉」を忘れない。あのとき垣間見た千夏先輩の不安の大きさ。その感覚を「ちゃんとしつこく」覚えているはずだ。
このとき二人は、お互いの気持ちを知ることができたと思っている。でもそこにも誤解が残っている。もっと深く理解できる余地がある。なるほど、そう思っていたのか。そういう「更なる腹落ち」を経験する余地がある。そしてそれが「物語の伏線」になっている。誤解が残り続けそれを伏線回収し続ける。それが、私たちが何気ない日常のなかで「物語性を感じられる理由」なのだろう。あのときのあれは「そういうこと」だったのか。そういう伏線回収をしながら私たちは生きている。

●千夏先輩と雛、それぞれのズレ
雛は千夏先輩に対して「大喜の株」を上げようとする。でもそれは、雛の想定外の効果を生む。雛は大喜が好きなのではないか。それが千夏先輩の感じたことだろう。
雛は「自分の気持ちは自分でも分からない」を代表するキャラだ。大喜のことが好きで、それを自分でちゃんと気づいていない。でも自分自身のことが分からないのは、誰もが同じだ。みんな自分の事を誤解して伏線回収しながら生きている。そしてそれが悲劇的な物語になることがある。雛の悲劇性は「彼女の恋が成就しそうにないこと」だけではない。彼女の気持ちは周囲に漏れ出していて、彼女自身が知る方が後になる。そのとき彼女は「自分がピエロだったこと」に気づくだろう。でもそれは「雛だけが持つ特性」ではない。私たち全員が潜在的に持っている特性だ。私たちは、みんなは気付いていて自分だけが気づかない「悲しきピエロ」になれる特性と共に生きている。自分の気持ちにようやく気付いたときに「消えてしまいたい」と感じるタイプの苦しみに飲まれることがある。そういう宿命を共有している。だからこそ多くの人が「雛の悲劇性」に感情を持っていかれる。
雛が大喜をほめる様子を見て、千夏先輩は「雛の気持ち」を本人より深く理解する。それでも神の視点を持てるわけではない。千夏先輩もまた、自分の気持ちを見誤るからだ。彼女の性格なら、おそらく雛に遠慮するようになるのだろう。でもそれは「自分の気持ち」とはズレている。そしてそれもまた伏線になる。だから千夏先輩であっても「悲しきピエロ」になる可能性はある。でもきっと彼女はそうならない。彼女は雛とは違って「気持ちが漏れださない人」なのだ。でもそれは決して良い傾向ではない。それは孤独を抱えやすいということでもあるからだ。それは彼女の周りに「ある種の壁」を作り出す。そしてその壁を猪突猛進で突破できそうなのが大喜なのだ。そういう意味で似合いの二人なので、この三角関係の行きつく先に「どんでん返し」は無いだろう。見ている私たちはそう確信してしまう。そしてそれが、雛の悲劇性を深くしている。この作品は「雛の悲劇性」をどう描くのか。私はそこがとても興味深い。

●ズレの前向きな意味
私たちは相手の気持ちと自分の気持ちを見誤る。相手の気持ちよりも、自分の気持ちの方を大きく見誤る。そしてそのいくつかに、後になって気づく。あ、そういうことだったのか。そういう伏線回収は、ふつうなら「気持ちの良いもの」だ。でも「悲しきピエロ」という問題もある。気持ち良いのか、傷つくのか。その両極端な伏線回収の中で、私たちは「自分の事を知らない自分」を理解してい行く。そして相手も同じ条件で伏線回収を続けていることを理解する。そうやって相手の事を深く理解してゆく。この仕組みがうまく回るのは、この「ズレ」があるからだ。
そして私はそれを、時代論にむりやり広げて考える(おじさんの性)。今は「正しさ」があふれた時代だ。正論は精緻化されて、反論の余地はつぶされてゆく。そういうポリティカルコレクトの流れは止められないだろう。そしてそれは「気持ちの理解」にも侵食している。あなたはこう思っているはずだ。私の気持ちはこうだ。気持ちにも正解があるという「信仰」が強く、そこでは「ズレ」は問題視される。ズレのない社会が志向される。でもそれは「伏線が貼られない社会」だ。そこでは、相手の事を深く理解する機会が減ってゆく。そしてその傾向は既に見えている。SNSでは気持ちを明文化する必要がある。揺れている気持ちはわかりにくく、目を引かない。
『アオのハコ』で描かれる人間関係に、私のようなおじさんが強く惹かれるのは、自分の気持ちと相手の気持ちをつかみ損ねる「ズレ」の前向きな効用について、強く思い出させてくれれるからなのかもしれない。

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