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アニメ「全修。」1話感想/未来をオマージュで上書きする

アニメ「全修。」1話視聴。とても面白かった。アニメ制作での「全修(全部やり直し)」という言葉が持つブラックな響きと、でもそこにある「ある種のエモさ」のようなものについて、いろいろ妄想的に考えたことを、メモしておく。(勝手な妄想多め)

#ネタバレあり

●1話のあらすじ
主人公(ナツ子)は凄腕アニメーターで、作品へのこだわりが強い。でも恋愛経験がないので、初恋がテーマの作品制作で行き詰っている。あるきっかけでナツ子は自分の好きな映画「滅びゆく物語」の世界に転生し、そこで起こる予定の悲劇的展開を拒否し、能力を発動して物語を書き換える。

●こだわりと「未来の上書き」
クリエーターにとって「こだわり」とは、「これではダメだ」と思うこと、理想を求めて修正を続けることだろう。現状の作品の出来がいまいちでNOを出す。理想を求めて修正を求める。それはつまり「作品が現状で世の中に出てゆく未来」を否定して「別の未来」で上書きする行為だ。「現状の否定」と「未来の上書き行為」こそが「こだわり」の本質だろう。そういう意味で、ナツ子が「滅びゆく物語」の鬱展開を否定し、別のストーリーで上書きした行為は「こだわり」というものの本質だ。そしてそこで上書きされたシーンは、「風の谷のナウシカ」で巨神兵が王蟲を薙ぎ払う有名なシーンのオマージュだった。これにはどういう意味があるのだろうか。私が勝手に考えたことを書く。

●未来をイメージすることと、オマージュ
私たちが未来を上書きしようと決意するのは、「予想される未来」を明確にイメージできるときだけだ。このままだダメだ。こんな未来は受け入れられない。そう思ったときに別の未来で上書きすることを決意する。そのとき、どんな未来でも好きなもので上書きできるわけではない。現在と連続する未来としてイメージできるものでしか上書きできない。そのとき私たちに使えるものは、記憶にある鮮明なイメージのオマージュ的なものだ。記憶に鮮明に残っているイメージが多ければ多いほど、未来の上書きがイメージできる可能性が増える。ナツ子はあの場面で、ヴォイドの大群を見て王蟲の群れを連想した。砂漠が酸の海の近くの砂丘に見えた。これは単なる偶然かもしれないし、「滅びゆく物語」の作者のヴォイドのイメージに王蟲のイメージがあったのかもしれない。私たちは、過去のイメージの断片から世界を構築している。イメージした未来に引き寄せられるように世界を構築する。そういう、みんなが何気なく普段から行っている世界構築に、宮崎駿のファンタジーは強い影響力を持っている。そういう意味で私たちの世界は、ポスト宮崎駿的世界なのだろう。その宮崎駿ですら、あの映画のイメージは何かのオマージュ的なものの集積がからできているのかもしれない。

●今の時代に「強いこだわり」を肯定できるか
アニメ制作現場はブラックになりがちで、そこには「やりがい搾取」のような経営側の問題がある。でもそこにあるのは経営側の問題だけじゃない。ナツ子のような現場側の「作品への強いこだわり」もブラック化する要因だ。だからこそ「強いこだわりの功罪」は重要なテーマのはずだ。でも今の時代に「現場のこだわり」を描くことは難しい。安易にそれを肯定的に描くなら「強いこだわりの被害者」を無視している、という非難を受けるだろう。作品への強いこだわりには、良い面と良くない面の両面がある。そんな当たり前の話は、当たり前に語ることはできない。そこにはひねりが必要だ。そんな中で、本作品は「強いこだわり」の肯定的な面もちゃんと描けるように、挑戦しているように私には見える。
ナツ子は、まるで魔法少女のように、新たなシーンを描き出して、鬱展開を善良な物語に差し替える。そんなことが出来るのは「未来をイメージできる力」と「別の未来をイメージできる力」を持っているから。でもそれだけではない。私が「別の未来に取り換えてやる」という強い意志。この最後の要素は良い面だけではない。それはある人にとって「余計なお世話」である可能性もある。未来置換の犠牲者がいる可能性もある。とてもパワハラ的だし、パターナリズム的でもある。それでも、その「強い意志」の中にしかない「重要なもの」があるのも確かだ。そういうものが描かれることを期待してみようと思う。



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