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アニメ映画「ジョゼと虎と魚たち」/「あたいには届かん。ずっと届かんかった。」その感覚を思い出す物語

先日、私のAmazonレビューがすべて消えてしまった。Yahoo映画に投稿したレビューも消えてしまったら悲しいので、過去にYahoo映画に投稿した内容をNoteにも書いておく。(2023/10/25投稿内容の自分用備忘録)

#ネタバレあり

あたいには届かん。ずっと届かんかった。もう何にも手を伸ばしたくない。
ジョゼが叫ぶこのシーンが、私にとってこの映画のすべてだと言ってもいい。それくらい心に刻まれたシーンだった。

ジョゼの過剰で突飛な行動や、それが恒夫に降りかかる様子は、見ていてとても愉快だ。でもその行動原理には違和感を感じ続ける。でも彼女のこのセリフで違和感のすべてが氷解する。ああそうか。彼女が胸の内に抱えてきたもの。ひた隠しに隠し続けてきたもの。改札で切符を買えなかったときの気持ち。それはそういうことなのだ。そう感じた瞬間、色々なことが私の頭をよぎる。
そういえば、私も過去に「私には届かない」と感じたことがあった。みんなには届くのに、私にだけには届かない感覚。深い絶望。そういうものが間違いなくあった。そのときの感覚を瞬時に思い出す、デジャヴのような感覚。ジョゼの抱え続けてきた絶望にすこしだけ触れたんだ、という確かな感覚。そんなことはめったにおきない。それだけでも私には★5に値する映画だ。

この映画は深い絶望を描く映画ではない。その深い絶望を乗り越える物語だ。
もう手を伸ばしたくないと言うジョゼに、恒夫は「好きなら諦めるな」と言う。これは無神経なセリフだ。彼はまだジョゼの気持ちが理解できない。理解できるのはもっと後だ。でもジョゼにこの時必要だったのは恒夫の無神経さだ。彼女の気持ちを大きく揺れ動かすほどの無神経さ。それ以外では、彼女はどこにも行けなかった。「無神経なことを言わないこと」は一番重要なことじゃない。無神経なことを言える資格。無神経なことを言われても、それを無視できない関係性。そういう相手が作れるか。その相手に気持ちをぶつけられるか、それが大事なのだろう。それはこの物語では「恋愛という形」で表現されていたけれど、もっと色々な人間関係にも言えることなのだろう。そんな色々なことを考えさせられた「あのジョゼが叫ぶシーン」は、私にとって忘れられないシーンだ。

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