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アニメ『アオのハコ』感想/手が届かないものにだけ、人は憧れることが出来る

アニメ『アオのハコ』を2話まで視聴。とても素晴らしい。「憧れ」というものをこんなに真正面から描く作品は久しぶりな気がする。誰かに憧れることは幸せだ。もし、みんなが誰かに憧れていることができれば、それ幸せな世界になる気がする。憧れにはそういう力があるんじゃないだろうか。そういうことを感じる作品だ。考えたことをメモしておく。

#ネタばれあり

●憧れは誰も不幸にしない幸せ
この物語の中では、すべてが輝いて見える。憧れの先輩も、体育館ですらも。もちろん私はそんな経験はない。私が知っているのは古びたホコリっぽい体育館。そこにキラキラした憧れの先輩なんていなかった。キラキラしていたのは光の中のホコリくらいだ。それでも主人公の大喜に感情移入できる気がする。それは「理想の青春への憧れ」だろう。手に届くはずもない理想の青春。それでも「ありえたかもしれない」と感じてしまう。大喜は千夏先輩に憧れていて、私はその非現実的ともいえる理想の青春に憧れる。共通するのは「手に届かないものへの憧れ」だ。そしてその感覚は「とても幸せなもの」で、それも「誰も不幸しないタイプの幸せ」だ。(この作品には不幸になりそうなキャラがいるからややこしい。でもそれそれは「恋愛」の話だ。憧れは取り合いにはならない。)

●理想を描き続ける難しさと、手が届かないものがある幸せ
例えばスポーツは競争だから勝者と敗者に分かれる。そこには「勝つために努力する幸せ」がある。でもそれは競争に強く紐づく幸せだ。恋愛にもそういう面がある。それは「敗者の犠牲の上に成り立つ幸せ」だ。
でもそれとは別に「誰かに憧れる幸せ」というものがある。それに敗者の犠牲は必要じゃない。必要なのは相手に理想を感じられるのか。理想を思い描けるか。そしてそれを描き続けられるか。それが必要なものだ。でも、もちろんそれは簡単じゃない。
大喜の場合、千夏先輩が理想像の役目を担う。けどそれは千夏先輩にとっては「荷が重い役目」だろう。もし、二人が憧れというもので向き合ったら、いや私は憧れられるような人間じゃないんだよ、という話にしかならない。それはどこかで幻滅が訪れて終わってしまう。でもこの物語はそうはならない。なぜか。それは二人がお互いに向き合うのではなく、違う立場から同じ方向を見ているからだ。だから理想は幻滅しない。
大喜は「千夏先輩が誰よりも真剣にインターハイを目指す姿」に惹かれ、千夏先輩は「大喜がコートの中で全責任を背負う姿」に惹かれる。これは相手の中に「手のどかない理想の自分」を見る形になっている。千夏先輩はチームメンバーの期待を背負って戦う。それは個人競技を選んだ大喜は経験できないタイプの大きな責任だ。それをちゃんと引き受ける姿は、大喜には「手に届かない理想」なのだ。そしてそれは逆も同じだ。大喜は試合の全責任を一人で背負って戦う。それは千夏先輩が経験しない孤独な戦いだ。二人は競技を選んだ時点で、ありえたかもしれない自分を手放している。それは自分の可能性を手放すというマイナスの出来事だ。けれどそれは同時に「手に届かない理想への憧れ」を手に入れるというプラスの出来事でもある。

●手が届かないものにだけ、人は憧れることが出来る
そしてまた自分の話に戻る。私は大喜に比べてしまえば「残念な青春時代」を送っていたということになる。今さら理想の高校時代を手にすることはできない。でもその事実は、尽きない憧れの源泉でもある。この作品のように非現実的なほどのキラキラした青春の中に「手の届かない理想の自分」を見続けることが出来る。その点では、千夏先輩に憧れ続ける大喜の気持ちに重なる、と言えるだろう。自分と全く似ていないリア充高校生の大喜に、自分を重ねられてしまえるのは、きっとそういう「誰かに憧れる構造」を共有しているから、なのだと思う。
そしてちょと強引に話を大きくするなら、今の社会の息が詰まる感じは、競争に目を向けすぎていて、手の届かないものがある幸せに目を向けないバランスの悪さが要因の一つなのかもしれない。「生きていくために必要なもの」以上のものに対しては、手に入れられる幸せと、手に入らない幸せの両方がある。それは結構重要なことなのかもしれない。


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