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『葬送のフリーレン』とAdo『unravel』カバー/「痛みの抑制」と「痛みを感じさせるもの」

アニメ『葬送のフリーレン』が話題になっている。そこで「痛み」の表現は異常なまでに抑制されている。登場人物は痛がらないし葛藤も表出しない「低温キャラクター」だ。そのことの意味について私はとても気になっている。そして最近、Adoによる「unravel」のカバーを聞いて、伝わってくる「痛み」の強烈なリアリティにショックを受けた。いろいろ感じたことをメモしておく。ネタバレあり。

●『葬送のフリーレン』の気になる「徹底した感情の抑制」
フリーレンはヒンメルの葬儀で後悔の涙を流す。しかし、それ以外でフリーレンは感情を表に出さない。魔族に一族を根絶やしにされた時の回想も、淡々とした語り口で語られる。フリーレン以外の登場人物も強い感情を見せることはない。フェルンもハイターをなくしたときでさえ、感情は押し殺されたままで露呈しない。心理的にも肉体的にも「痛み」の感情は、意図的に過度に抑制されているように見える。決して淡々とした日常を描こうという作品ではない。魔王討伐後ではあるが、人との死別を悔いたエルフが死者との再会を目指し、新たな仲間と一緒に魔族との死闘を潜り抜けて天国を目指す話なのだ。

●Ado『unravel』カバーと「痛み」の疑似体験
とりあえず、Adoのカバー動画を貼っておく(スタジオバージョンとライブバージョンがある)。

このカバーは「痛み」をリアルに感じる。導入の「繊細な歌声」によって、その感情を読み取ろうと「前のめりになった気持ち」が、その後の強烈な歌唱によって引きずり回される。そして「感情の濁流」によって「痛み」を疑似体験する。つまり、そこで湧き起こってくる感情には「Adoによって表現された痛み」がまるで「自分の痛み」であるかのように感じさせる力がある。そして、歌詞がわからなくても痛みの疑似体験は成立する(海外の反応が示す通り)。しかしそれは「歌詞が不要」ということを意味しない。「歌詞のある歌声・叫び」は必要だ。それ無しでは疑似体験は成立しない。(もちろん歌詞の意味も重要で、それは疑似体験を「ある方向」に加速する。が論旨とずれるので、とりあえず意味の効果は考えない。)
Adoは「痛み」を直接的には表現していない。直接的な表現は、痛みを感じにくくすることもある。『鬼滅の刃』で炭次郎が「すごく痛くて耐えられない。でも長男だから我慢する。」と叫ぶとき、彼の痛みを感じることは難しい。つまり「彼は痛いと言っているが、彼は我慢強い人なので、本当にとても痛いのだろう」という思考のクッションが「痛みの感覚想起」のタイミングを失わせてしまう。

●言葉の力の二つの側面
Adoのカバーで音楽は重要な要素だが、ここでは言葉の力に話を絞りたい。そこでは「言葉を紡ぐ声」が心を揺さぶり「痛み」の感覚を伝えている。紡がれるのは「意味のある言葉」である必要があるが意味自体は重要ではない。何かを必死に伝えようとする姿が心を揺さぶるのだ。このことは「言葉の力」の2面性を示している。つまり、言葉には「意味を伝える力」と「感覚を伝える力」の二つがあるということだ。そしてそれらは、「ルビンの壺」の顔と壺のように、一方を認識すると別の一方は認識できなくなる。つまり「感覚」を伝えるには「意味を伝える力」は抑制しないといけない。

●「意味を伝える力」を抑制する常套手段と別の方法
「Adoのカバー」は「弱さ」を使って聴く人の感情を掻き立て、「意味」を経由せずに「痛みの感覚」を想起させる。「この感覚は痛みだ」と頭で意味に気づいた時には、すでに感覚が想起された後なのだ。感覚の後に意味がやってくるやり方として、この「感情を掻き立てて意味を抑制する方法」は常套手段だろう。
そして『葬送のフリーレン』。この作品の「徹底した感情の抑制」は、常套手段を使わずに「意味を伝える力」を抑制する方法として使われているのではないだろうか。つまり登場人物に痛いと言わせないことで、彼らの痛みを私たちに感じさせる有効な方法になっているのではないか、ということだ。そしてそれは「ある程度までは」成功しているように見える。
でもこの方法には欠点がある。見ている人のストレスが高いのだ。私たちは登場人物たちに興味を持っているが、彼らの感情や感覚については慎重に隠蔽されている。この「よくわからない宙ぶらりんの状態」は、私たちにとってストレスのある状態だ。だからそれを物語として維持できているのは凄いことだと思う。魔族との戦いで、魔力制御によって見事に欺かれた魔族の姿を見ることで、私たちは「感情抑制で欺かれている自分」から目をそらすことに成功していて、そのおかげでストレスの高い物語についていけているのかもしれない。だとしたら「魔力抑制で欺かれる魔族」と「感情抑制で欺かれる私たち」が対になっている、とても面白い構造の物語だ。

『葬送のフリーレン』に対する私の拙い分析は的外れかもしれない。でも少なくとも、この物語が「新たなこと」に挑戦していることは間違いないと思う。それが私たちをどういう感覚に連れて行ってくれるのだろうか。できることなら「誰かの痛み」がちゃんと「強烈なリアリティで」感じられる、そういう所に連れて行ってほしい。期待して見続けようと思う。


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