「自己肯定感」という言葉が嫌い、と改めて思った話。

自己肯定感という言葉が嫌いだ。改めてそう思うことがあったので、せっかくなので感じたことをメモして置こうと思う。(専門家でもなんでもない素人の感じたことのメモです。)

自己肯定感という言葉が嫌いになったのは、「自己肯定感」を語る人の主張に同意できないからだ。同意できない理由は二つある。
一つは「私には興味のない話」だから。私は自己肯定感がなくても困っていない。もし、どちらにでもなれる選択肢があるなら(選択できないと思うけど)「自己肯定感の高くない人」の方がいい。でもそれだけでこの言葉を嫌いにはならない。嫌いなのは二つ目の理由からだ。
二つ目の理由は、この言葉が「世界を悪くする言葉」だと思うからだ。もし「自己を肯定したい」と思ったとしても、それは本人の意志の力では何ともならない。巷にあふれている「自己肯定感を高める処方箋」は超テキトーで、大体間違っている。自己肯定感とは「根拠のないものを信じ続ける特殊な才能」だ。それを後天的に手に入れることはほとんどないのではないか。それは強迫観念をあおる「呪いの言葉」になってしまっている気がする。つまり「自己肯定感」という言葉は、ある事柄を「なるほど」と感じられるように説明できるけれど、ちっとも世界を良くはしないのではないか。私にはそう思えるのだ。

あらためてそのことを考えたのは、この記事を読んだからだ。

この東さんの回答は「後悔(つまり自己否定)できること自体が、ある種の幸せだ」ということだろう。「自分を否定する自分」を毛嫌いする必要は無い。そしてそれは「自己を肯定しなければならない強迫観念」から解放するもので、そういう「自己肯定する必要は無い」という捉え方の方が、世界をよくするものなのではないか。

自己を否定してしまう問題はおそらく、自分の中にある「自己否定のロジック」の存在が問題なのではなくて、「それに対抗するもの」が欠乏していることの方が問題なのだろう。「自己否定」に悩むことで「それに対抗するもの」を育てるべきで、そういう捉え方でしか、私たちは前に進めないのではないか。そんなことを感じたので、メモしておく。

いいなと思ったら応援しよう!