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1月「雛菊の願い」⑫
女性に連れられて向かった先は、なぜか花屋へ行く通りだった。大怪我したと言っていたから、てっきり病院に連れて行かれるんだと思っていた。それなのに、女性は私の手を引いたまま、花屋までの道を走ろうとしている。けれど私はヒールの高い靴を履いていて、早く歩くのが限界だった。
「あの、病院じゃないんですか?」
歩きながら女性の背中に声をかけても、すぐには答えが返ってこない。後ろから見える女性の顔からは、はっきりとした表情は見えないけれど、私を呼びに来た時も今も焦っていることだけは解った。
「あの…なんで私を呼びに来たんですか?」
声が返ってこないと解っていても、私は女性に向かって話しかける。いや、私は女性から言葉を返してほしかったのだ。どんな言葉でもいい、彼の怪我が大事には至らないという確証がほしかった。怪我の具合が解らなくても、どんな状況から怪我をしたのかとか、病院に行かなくても良い程度の怪我だとか、自分の心を落ち着けるためだけの情報を一つでも得たかった。何も知らされないまま、ただ大怪我をしたと聞かされたのに、向かう先が病院ではなくて花屋だということは、せめて彼が無事なのだという安心材料であってほしかったのだ。
何も答えが返ってこないままの、駅から花屋までの道がこんなにも長いと感じたことはなかった。途中しびれを切らした私は、女性の手を振り解く。女性は掴んでいた手が離れてようやく私を振り返った。初めて見えた女性の表情は、自分の手を振り解かれたせいか少し戸惑って見えた。私は自由になった手で、高いヒールの靴を脱いで手に持った。そして花屋までの道を走った。突然の私の行動に置いて行かれた女性は、背後で「え」とか「ちょっと」と焦った声をかけていたが、私は構わず走った。安心材料が得られないのなら、自分で確かめたかった。自分の目で彼の無事を確かめたかった。
花屋に着いて扉を勢いよく開け放つ…と、花屋の店主である彼が立っていた。大怪我をしたと聞いていたのに、彼は右手首から手にかけて包帯を巻いてはいるが、いつも通り花の手入れをしていた。私に気づいた彼の方が、私の出で立ちを見て驚いていた。
「え、姫奈(ひな)ちゃん!? どうしたの? 靴…足、大丈夫なの?」
彼氏とのデートでもこんなになりふり構わず走ったことはない。高いヒールの靴も脱いで、めいっぱい着飾った服装も髪型も振り乱して、全速力で走った。だからすぐには答えられなかった。肩を上下に息を整えながら、目線で彼の全身を確認する。腕以外に大きな怪我はしていないように見えた。ようやく無事を確認出来た途端、足がガクガクと震え始め、疲労感が全身に襲ってくる。大きく溜息を一つついてその場にしゃがみ込めば、彼が心配して駆け寄ってきた。
「姫奈ちゃん!? 大丈夫? えっとお水! お水持ってくる…」
「いいっ…から、大丈夫…から、怪我…って聞いて…びっくり…た。大丈夫か聞きたいのは…私…の方」
途切れながらも言葉を紡いでいく内に、少しずつ話せるようになっていって、彼もようやく私の話に理解が追い付いたのか、私と目線を合わすようにして自分もその場にしゃがみ込んだ。そしてしゃがみ込んでいる私の頭を、包帯を巻いていない方の手でポンポンと撫でた。
「心配してくれたんだ、ありがとう。まあ利き手だから全然大丈夫! とは言えないんだけど…でも大怪我ってほどの怪我ではなかった…って、あれ? 姫奈ちゃん、そういえば誰から聞いたの…怪我のこと」
彼が頭を撫でてくれた時、無性に泣きたくなった。本当の本当に無事だと確かめられたことによる安心からなのか、大怪我と聞いていたのに意外と大したことなくて、心配させられたことによる悔しさなのか、それとも他の感情から来るものなのか、全部がぐちゃぐちゃになってなのか解らないけれど、彼氏とさっき駅で別れた時とは違う涙が零れそうになった。そこへ彼が怪我のことを誰から聞いたかと問われ、女性の存在を思い出す。私をここに連れてきてくれた、彼と親しい女性の存在を。
「あ…の、あなたがよく一緒に居た女性が…ここに…」
女性のことを話そうとすればするほど、言葉がうまく出てこなかった。彼が、私から言葉が返ってくるのをゆっくりと待ってくれていると解れば、余計にうまく説明出来ないまま時間だけが過ぎようとしていた。そこへ置いてきた女性がようやく追いついたのか店に入ってきて、しゃがんでいる私たちを見て声をあげた。
「びっくりした。突然靴脱いで走り出すんだもの、若い子の全速力には追い付けないし、元々走るの得意じゃないし…ってあれ? 当摩生きてる」
「生きてるって…そりゃ生きてるだろ。志摩、お前か。姫奈ちゃんに知らせたのは…」
「だって仕方ないでしょ。いつも自分のことには無頓着な当摩が、誰かさんのこと気に病み過ぎて、一番好きな仕事も手につかなくなって、花木を運んでる途中でセットの下敷きになったと思ったら全然目覚めないし、これでも気を利かせたつもりなのよ」
「下敷きってほどのものじゃないし、何よりお前も一緒に居ただろう。生きてるし言うほどの大怪我じゃないことくらい知っているはずだろ。それがどう気を利かせたら、姫奈ちゃんを不安にさせて連れてくることになるんだ。しかも大体いつ面識があったんだよ」
「彼女の彼氏と仕事で一緒の時に会ったのよ。あと店で留守番してる時にも会ったわね」
「そういえば来てたな、二人で店に。そうだ、お前が姫奈ちゃんに余計なこと言ったんだろう。彼氏と一緒の時に…」
二人の親し気な会話と、怪我をした時にも一緒だったことを聞けば聞くほど、私の心は沈んでいった。
しゃがんでいた私は、自分の息が整ったのを確かめると、その場に立ち上がった。彼も女性も私が立ち上がったのを見て、会話を止めた。けれど俯いたまま、私はなかなか顔が上げられない。二人はそれぞれに私の様子を窺いながら、大丈夫かと声をかけてくる。俯いたまま立っていると、包帯の巻かれた彼の右腕と女性の赤みを増した手が視界に映った。私の腕を掴んだ、熱くて強い手だ。その手は、ここに来るまでの焦った様子と声をかけても返ってこなかった時のことを思い起こさせた。そして彼の手に巻かれた包帯は、怪我をした時に一緒に居たという女性との状況を、私の頭の中に勝手に描いていく。本当は女性を庇ったのかもしれないと…。
「…私、帰る。無事だって解ったし、私がここに居ても彼女と違って、何も出来ることないし…二人の邪魔になるだろうから」
やっとの思いで口を開いたものの、その声は自分でも戸惑うほど弱々しかった。消え入りそうな声でも何とか最後まで言い終えて帰ろうとすれば、彼が私を呼び止めた。
「姫奈ちゃん、ありがとうね。せっかく彼のためにオシャレしてたのに、俺のせいでまたデートが台無しになっちゃったかな? ごめんね…」
いつもの明るく優しい笑みじゃない、苦笑い混じりの哀しい笑みを見せて、彼のためのオシャレとかデートを台無しにしたことに謝罪されて、私の中で耐えていた何かがぷつんと切れた。途端に自分でも解るほど、私の目からは涙がたくさん溢れ出て止まらなかった。