1月「雛菊の願い」④
後悔したあの日から、ずっと彼の姿は見ていない。おばあちゃんのところへ、近い内に顔を出すと言っていたのに、彼はまだ来ていないらしい。縁側でお茶をすすりながら、こんなに長く顔を見せないのは珍しいと口にする祖母の話を聞きながら、私は激しい後悔に苛まれる。もしかしてあの日のことが原因なのか、彼がおばあちゃんに会いに来ないのは、私に会う可能性があるからかもしれない…そう考えれば考える程、あの日言い放った自分の言葉が自分に重く、のしかかってきた。
「こんにちは。ごめんねー、なかなか顔出せなくて。今回の個展に使う発注が結構無理難題で…」
突然聞き慣れた声と共に、彼が隣の家から庭に直接入ってくる。あんなに悩んでいたのに、彼は何ともないくらいの平然とした様子で、おばあちゃんに話しかける。そしてそのまま縁側に腰かけると、おばあちゃんと個展がどうとかシマがどうとか話している。あんなに悩んだのに、あんなに激しく後悔したのに、あのごめんは何だったのか…と怒りにも似た感情が湧き起こる。
「姫奈(ひな)ちゃん、こんにちは」
何にもなかったように微笑んで挨拶してくる彼を見て、無性に腹が立った私は、「帰る」と一言だけおばあちゃんに告げて、玄関へと向かった。縁側から玄関へ向かう私の背中に、おばあちゃんは「挨拶くらいしなさい」と言ったけど、奥では「いいですよ、全然大丈夫です」みたいな彼の声が聞こえてくる。
何が大丈夫だ、全然こっちは大丈夫じゃない。あんなに悩んだのに、あんなに後悔までしたのに、これじゃあ私がバカみたいじゃない。
「ごめんね」
そうだ、そのごめんねのせいで私がどんなに…と、心の中で悪態をつこうとすると、あの日と同じ声がすぐ後ろで聞こえる声と重なった。勢いよく後ろを振り返ると、縁側に居たはずの彼がすぐ後ろに立っていた。突然のことに驚き、立ち尽くしたまま言葉にならない私に、彼はそっと花を一輪差し出してきた。
「これ、お詫びというには一輪だけなんだけど。いつもこの花を見ると姫奈ちゃんを思い出すんだ…って、この花の意味を知ったら、姫奈ちゃんにはまた怒られちゃうかな」
少し寂しそうに微笑みながら、彼はお詫びと言った。庭に入ってきた時も、おばあちゃんに話しかけてきた時も、平然と平気そうにしていたけれど、そうじゃなかったんだ…と思っても、あの日の自分の言動を考えれば、何と口を開けばいいのか解らなかった。結局何も言い出せないまま、彼は踵を返しておばあちゃんの居る縁側へと戻っていった。
帰宅後、母に花のことを聞かれたので、おばあちゃんの家で隣の家の大学生にもらったことを伝えた。個展がどうとかシマがどうとか、おばあちゃんと彼が話していたことをそのまま伝えると、母は納得して何度か頷いた。
「そういえば、あの人って…何の仕事してるの? 大学生でしょう?」
以前にも母から「仕事」という言葉を聞いていたことを思い出して、私はちょっとした興味本位で聞いてみることにした。
「姫奈は知らなかったっけ? 昼は大学に通って、夜にお花屋さんのお仕事してるのよ。元々おばあさんのお花屋さんなんですって。でもお体を壊されて、店を閉めるってなった時に、自分が後を継ぎたいって願い出たそうよ。常連さんもたくさん居て、普段使いのお花屋さんとは違って夜に営業しているお店なんですって。だから続けるってなった時、近隣のお得意様から相当喜ばれたそうよ。大学に通いながら大変でしょうって話したけど、おばあさんの愛した大事なお店だからって…あんなに良い子、イマドキ居ないわよ。もらった花、ちゃんと一輪挿しに活けて大事にしなさいよ」
普段使いの花屋とは違う店…という言葉に、多少の引っ掛かりはあったものの、夜に営業している店と言われれば、あの日オフィス街で見かけた時間帯もそのせいだったのかと、ようやく納得がいった。
「ねえ、この花の名前なんて言うの?」
リビングへ向かおうとする母の背中に声をかければ、母は一言「デイジーよ」と伝えて奥へ消えていく。私は洗面台から一輪挿しに水を注ぎ入れると、もらったデイジーをとりあえず挿して、自分の部屋の机の上に置いた。それからすぐにスマホを取り出して、「デイジー」を検索した。
『この花の意味を知ったら、姫奈ちゃんにはまた怒られちゃうかな』
単純にその言葉の意味が気になった。だから彼が見せた寂しそうな微笑みとか、申し訳なさそうな「ごめんね」の言葉とか、そういうのが気になったわけじゃない…と、誰に言うでもなく自分に言い訳しながら、私はデイジーを検索した。
「デイジー…日本では雛菊っていうんだ。見たことあるかも…でも花言葉、色によって違うとは書いてあるけど…こんなにたくさんあるんだ。もらったのは黄色だったっけ…ええと、黄色い雛菊の花言葉は…」
黄色の雛菊の花言葉が書かれた画面を目で追っていた私は、動きを止めた。そこに書かれた文字は『ありのまま』だった…。