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5月「ヤマボウシの約束」②
夢だ。夢に違いない。そもそも羽が生えたオッサン…いや、もうこれあれじゃん、完全なるキュー〇ーじゃんね。
『ボクはキュー〇ーじゃない。立派な成人だ』
いやいや、どう見たってキュー…ん? 今あたし、声に出してない…。
声には出さず、心の中で発しただけの言葉に返答され、あたしは困惑した。夢だと思ったし、夢であってほしいのに、目の前のキュー〇ーのような不思議な存在が、あたしの願いを容赦なく打ち砕いていく。
『残念だが、これは現実だ。ボクは今、君の目の前に居る。しかし他の人間にボクは見えない。なぜ君に見えているのか、正直ボクにも解らない。君たちは何者だ?』
「えー…あれだ。今流行りの異世界転生アニメみたいな…」
『いや、ここは君が生きている現実だ。ボクの存在そのものが非現実に過ぎない』
逃げられるものなら、すぐに逃げ出したかった。どう考えても尋常じゃない。でも確かに、時々通り過ぎていく自転車や、車を運転する人たちは目の前の存在に気づかないのか、何事もないように素通りしていく。自分の存在を非現実的なモノだと言ったそれは、背中の羽を時々揺らしながら鈴を鳴らしている。赤い目をした黒い猫は、こちらをずっと見つめたまま動かない。
「あ、でもさっき…蒼(あおい)を異次元に連れてったって言ったじゃない!」
『…それはボクじゃない。あいつが勝手にしたことで、ボクの責任じゃない。だが、恐らくあいつも見られたんだろう。だから異次元に連れて行かれたんだろうな』
蒼を異次元に連れて行ったという、その話も信じ難い話だが、あたしの目の前で起きているこの事象も既に信じ難いを超えるレベルだった。でもそんなこと以上に、蒼の無事が気になった。
「蒼は無事なの⁉ 異次元って言われても信じらんないし、意味わかんないし…そもそもあんたこそ何者? あと、さっきからあんたの隣に居る赤い目の黒猫が、こっちじっと見てて怖いんだけど…」
あたしが黒猫が居る位置を指差すと、背中の羽がびくっと揺れて、羽についていた鈴がひと際大きな音を出した。
『お前…こいつが見えるのか?』
「いやいやいや…まさか、この猫も猫じゃないんです…とか言わないよね。普通にあんたの隣に座ってるけど…え、見えると死ぬ…とかないよね?」
昔蒼と観に行ったホラー映画で、見えたら死ぬ…みたいなやつがあったのを思い出して、瞬間的に冷や汗がどっとでてくる。まさかこんな日が落ちる前の時間帯からホラーなんて、あるわけがない…そう自分に言い聞かせるが、目の前の存在はいつまで経っても否定をしてくれない。
「え…まじで死ぬの? あたし…」
『いや、死なない』
緊張で声が震えながらも言葉に出せば、あっさりと否定される。じゃあこの間は何だったのかと憤っていると、赤い目の黒い猫がこちらへとゆっくり歩いてきた。じっと、視線を外さないままで歩いてくる猫から、あたしも目を逸らすことは出来なくなっていた。
赤い目をした黒い猫が、あたしの目の前でじっとあたしを見つめたまま座った。よく見ると毛並みが艶々していて、触りたい欲求に駆られた。ゆっくりと手を猫に近づけたが、猫は見つめたままの体勢で鳴きもせず、その場から動くこともない。あたしは恐る恐る猫の頭をゆっくりと撫でた。
『ウソだろ…信じられない。人間が…お前のような人間ごときが、ルイの許可をもらうなんて…あり得ないことだ!』
あたしが猫を撫でれば、信じられないと口に出し、出会った時の口調も表情も変貌していた。『君』もいつからか『お前』になったし、人間に対する嫌悪感のようなものも感じられた。表情も、黒縁眼鏡の下の眉間には、くっきりと深い溝が刻まれるくらいの皺が寄っている。それとは対照的に、恐怖でしかなかった赤い目の猫は、撫でられて気持ちよくなったのか、喉をゴロゴロと鳴らしながら目を細めて、自分から頭を押し付けてくる。撫でてほしいと催促されているような仕草は、そこら辺の猫と大差ないが、毛並みの艶と上品さはそこら辺の猫以上だった。
「可愛い…可愛すぎる!! 君はルイっていうんだね。あたしは愛唯(めい)だよ。あのキュー〇ーみたいな奴は…よく解んないけど、ルイは賢いし可愛いのに、なんであんなのと一緒に居るの?」
目線をなるべく猫に近づけるようにしゃがみ込んで話しかける。当然猫なんだから会話は出来ないだろうと思っていると、高く澄んだ声が聞こえた。
『あの子はハルよ。アタシはハルのお守り役のようなものね…。メイと言ったわね? あなたから微かだけれど…カジの匂いがするわ』
『は? なんでこんな奴からカジの匂いがするんだよ⁉』
「え…喋った? 猫…しゃべるの??」
喋らないものだと思っていたものが喋り、現実に起こるなんてあり得ないことが、今あたしの前で起きている…。二人…という表現で合っているのかどうかも既によく解らない存在が、あたしの前で会話を続けているのを目にしながら、あたしは混乱の渦に落ちていった…。