~解離性同一性障害にいたるまで~1
幼少期。いわゆる毒親育ちだったわたし。
久しぶりにDID(解離性同一性障害)についての記事を書いています。
この「解離性同一性障害にいたるまで」シリーズはいわば私の幼少期~現在に至るまでの回顧録のようなもの。
ゆっくりと更新していきますね!
物心ついたとき、sakuraはすでに母の希望によりピアノを習っていて、母はしつけに関していわゆる”厳しい教育ママ”でした。加えて当時の母はとある新興宗教の熱心な信者でもありました。4歳頃には既に、いわゆる布教活動に強制連行され、訪問する家々の玄関先で小さなリーフレットを手渡すのはsakuraの役目でした。
そんな私が幼稚園くらいの頃の話。
母の教育方針で「言いつけを守らなかったらお仕置き」というね。今のご時世なら児童虐待にもなりかねないかもしれないけど、ヌメ革のベルトでお尻をおもいっきり叩かれる。というのが母の言う"愛のむち"というお仕置きでした。(素手ならまだ叩く方も痛いんやけどね。ベルト使うから母は痛くない訳でタチ悪いと思うんやけど・・その新興宗教からのアドバイスなのか知らんけどどうなん??)
ある日のこと、園が終わって近所の同級生やそのきょうだいが私の家に来てみんなで一緒に遊んでいたときのこと。母が帰宅してくるなり激しく怒り始めた事がありました。何かしら私がいいつけを守っていなかったのでしょう(もはや覚えてすらいない)。
すると母は友達たちの存在には目もくれずに、鬼の形相であのベルトを持ち出してきました。
このあと起こる事が、私にとってどれだけ辱めを受けることか、5歳の自分にも容易に想像がついたよね。
そして私は友達たちの目の前でお尻を丸出しにされ、真っ赤に腫れあがるまで何度も何度も鞭打ちの罰を受けたわけで。
それ以来、同級生からは「sakuraちゃんのママ怖いから、もうおうちには絶対に遊びに行きたくない!」と言われ・・・5歳の私はすごく傷つきました。
子どものしつけや教育方針ていうのは、親になった今だからこそ思うことでもあるけれど、それぞれの家庭で決めたらいい事だと私は思ってます。
でも、sakuraは自分が子どもの頃されて嫌だったことは絶対に自分の子どもには強要しない、と決めてきました。
子どもは親のおもちゃでもなければロボットでもない、ちゃんと感情も考えもあるし当たり前に成長するし失敗だってして当たり前。
ひとりの人間として、子どもは子どもの人生を歩むのが普通じゃない??
17歳になった娘を見ていま私が思うのはね、もう私が母親として彼女にしてあげられることって、そんなに多くないんだなーってことです。
だからこそ、今の時間をすごく大切にしてあげたい。
彼女にしたら今はうっとおしい母ちゃんなのだろうけど。
毒親でも感謝していることがある。
母にまつわるトラウマエピソードは枚挙に暇がないのですが、そんな母に私がすごく感謝していることがあって。
・人にはきちんと顔や目を見て挨拶する
・立ち姿勢も座り姿勢、品良く振る舞う
・よそ様のお宅へお邪魔する際には靴をきちんと揃える(自宅でも)
・食事の作法(箸の上げ下げ、洋食のナイフフォーク、ナフキンの使用法に至るまで)
・いわゆる”方言”で話すのではなく家庭内では基本的な会話は標準語イントネーションを教えられてきたこと。
ごく一般的な礼儀作法にまつわる事柄全般に関して、父ではなく母が厳しく躾てくれたおかげで当たり前に身についていました。
そこはね、今でもありがとうって思う所です。こればかりは本当に感謝。
「しっかりしてるね~!」の呪縛。
そんな母だったからなのか、幼いころから外で誰かに会うたびに必ずと言っていいくらい「お嬢ちゃん、しっかりしてるね~!きちんとした子だね~」と言われて育ちました。当時、それが嫌というわけではなかったけれど・・ある程度大人になり社会人としてのスタートを切った頃も同じように人から褒め言葉として言われる機会も多く、きっとその言葉が、知らず知らずのうちにわたしにとっては”呪縛”のように「sakuraはしっかりした良い子なのだから、人様の前では決して恥ずかしくない振る舞いをしなければ。母をがっかりさせたり怒らせてはいけないのだ」という幼少期からの潜在意識が形成されたのだろうと思います。
夫婦喧嘩はいつもパトカー。
そんな私が10歳を過ぎた頃。
それまでほぼ専業主婦だった母は、当時父が経営していたちいさな会社の事務職の手伝いを離れ、外で働くようになりました。外資系保険会社のセールス。
そこまで家事を完璧にこなしてきた母が一変し、家事を行わなくなり、帰りはいつも21時過ぎ。
その代わりに私が洗濯や、部活が終わったらパパと買い物に行き、家族の食事を作るような生活が当たり前になり、習い事のピアノ教室にも1人でバスと電車とバスを乗り継ぎ毎週通う日々でした。
それはそれで、経験としては決して悪いことではないから自然と料理や家事をすることは苦ではなかったです。
でもね・・・私も成長と共に徐々に気づいていたんだよね。母の下着がどんどん、派手になっていることに。
sakuraが中学卒業を控え、高校を普通科の私立へ進学することが決まった頃には、週に何度もひどい夫婦喧嘩が日常的に起きるようになりました。
反抗期真っ只中にいた私。
いつもそれが始まると「めんどくせ・・・またかよ」と激しく激高する母と、ウンザリ顔のパパを傍目に煙草をふかしながら必ず外へ出て庭でうんこ座りをしていました。笑
そのうちに家の中から、ガチャン!パシン!とモノが割れたり壊れる音が聞こえて、甲高い母の「助けて~!殺される~!ギャァー!」という悲鳴のような声が・・・。
たいていそういう日は、そのうちにパトライトを消したパトカーと、2人の警官がスッと自宅前にやってきて、何やら玄関先で仲裁されているのをいつも白い目で見ていた事を忘れたことはありません。
私は15歳にして「民事不介入」というコトバの意味を理解しました。あいつら警察は何の役にも立たねぇし、母の暴走も虚言も大げさな”殺される!”も「まあまあ奥さん、わかったわかった、落ち着こうな」っていつも聞き流して終わりやねん。
結局、警察って何の役にも立たない。お前ら何のために警察やってんねん。市民の安全と生活を守るんが仕事ちゃうんかい!
いつものように警官が「やれやれ」とでも言わんばかりに煙草を吸っている私の目の前を「お嬢ちゃんもいつも大変やね、まぁ気にせんどきや~頑張りや!」と困り顔で声をかけて通り過ぎていく。
せめて高校生がタバコ吸うことくらい注意せんかい。笑
そんなことが月に2、3回は当たり前に起こる家庭で、私は思春期を過ごしていました。
一刻も早くここから逃げたい。実家なんてくそくらえ。
そんな日々を過ごしてきた訳ですが、高3になると9割以上の同級生たちがそれぞれの進学先を決めていく中。
私は「就職します。とっとと自立して家、出たいんで。」と担任に告げました。
担任は「あんな、お前ならなぁもうちょっと勉強頑張ったら充分ここらレベルはクリアできるんやけどなあ、勿体ないなー」と資料に目を通しながらも就職組に居座ることに。
その夏。
母方の祖母が急逝し、久しぶりに親族が集まりました。
ひとしきり葬儀やら何やらが終わった頃、親族一同がいる中で母が突然私に
「あんた、おばちゃん(母の実姉)家に居候して目の前にある大学通ったらいいじゃない。部屋は有り余っているし、家賃もかからないしおばちゃんの仕事ちょっと手伝うくらいのバイトして、ねえお姉さん?」と言い始めたのです。ちょっと意味わかんない。
母は姉と2人姉妹で、叔母の学生時代は地元では相当優秀な成績だったそうで、国立大の准教授まで勤めていたようですが、突如としてそこを離れ趣味を仕事にと独立したそうです。
とある業界で日本のトップクラスにランクインするまでの成功を収め、東北の田舎から婿に来た叔父は穏やかで勤勉で頭の良い銀行マン。所謂「趣味の悪い成金マダム気取りの叔母ちゃん」で、14LLDK位のへんてこりんな大豪邸に住み、趣味を仕事に悠々自適ライフを楽しんでおりました。笑
叔母の性格は、母とは真逆におおらかだったので、その場で私の進学と居候話は快諾され。
何だかよくわからないけど、私は突如として、翌春からは叔母の家に居候しながらFランクもいいとこの、名前も知らんよくわからない、行きたくもなければやりたいこともないなんちゃら大学へ進学することに決まったのです。
結局、何だかんだで私の学生時代は母に振り回されてたことが多いなぁって今でも思います。人生、やり直せるなら高校時代に戻ってもっと真面目に勉強して、ちゃんとした大学へ進学して・・・って今ふと思うけれど。
そうしたらきっと、今ここにいる娘たちには絶対に出逢えていない訳で。
だから今でもあのとき何となく進学したこと、そのあと早くに結婚したこともその後数年を経て離婚したことも・・・後悔はしていません。
長くなったので今回はこの辺で・・続きはまた次回の記事に。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます♡
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