母親
母親の記憶
私の母親は私が9才の時に大腸がんで亡くなりました。
なので母の記憶はあまりありません。声も忘れたし、顔も遺影の顔しかもうわからなくなっています。
そんな中で覚えているのは、母は厳しい人だったということ。
私はよく泣く子で、泣きじゃくっていると母に押し入れに閉じ込められたり、お尻ぺんぺんもよくされていました。
幼い頃から塾にも通っていたし、教育熱心な所も感じられました。
私はそんな母に気を使っていた様に感じます。
母とピアノ
ここまでの話しだとなんて母親だ!って思いますが、私は母が大好きでした。
勇気をふりしぼってピアノを習いたいと母にお願いしたとき、怒られると思っていたけどすんなりOKしてくれたのはすごく嬉しかった。
ピアノを弾けるのが嬉しくて、それなりに上達もした。でも私の記憶では1人で弾いている姿しか思いだせない。
母は私がピアノを初めてすぐに入院をしました。
厳しい母が入院してから暇?になった私はたくさんピアノを弾きました。
でも1人で弾くピアノはつまらない。母に聴いてほしい。だんだん虚しい気持ちになっていき、母が亡くなってからピアノは辞めてしまいました。
その後母の知人から、私がピアノをはじめたと言う事を嬉しそうに母が話していた。と言う話しを聞いた。
その顔見たかったな。
母の危篤
母が死ぬなんて思ってもいなかった私、いつか病気が治って元気になって帰ってくると信じて疑わなかった。
ある日父が「病院に行くよ」と私に言いました。
今まで御見舞いに連れて行ってもらえなかったので、すごく嬉しかったのを覚えています。
「お母さん元気になったんだね!」
と父に言った時の父の表情は忘れられないです。
母の病室に着くと、9才の女の子でも状況は 理解できました。
息をひきとるのを待つだけの状態。
お医者さんが母の死を伝える。
私は心電図を見て、「心電図はまだ動いているのに!なんでそんな事を言うんだ!」と怒っていました。
母の葬儀
母が家に帰ってくると、当時6才の弟が母の頭をずっとなでていました。
通夜、葬儀は自宅で行ったので常に家には多くの人がいました。私は人が多い所が苦手だったので、自分の部屋でピアノを弾いていました。
出棺の時、父、姉、弟の3人が霊柩車に乗りました。
私だけ別の車で火葬場へ。きっと霊柩車に乗れる人数が3人だったのだろうけど、私だけ別でとてもさみしい思いをしました。
その後
私は不登校になりました。
何で私にはお母さんがいないのだろう?
友達は皆お母さんがいるのに…。
そんな事ばかり考えていました。
父親だけの生活が始まりました。