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○狗巻棘から学ぶ言葉の力

私は昔から、自分が晴れ女であると信じている。
自分の誕生日は大抵晴れているし、この間母と行ってきた母娘2人旅は雨予報だったのに、蓋を開けてみたらそこまで降らなかった。

いや、少しは降ったんかいって思ったでしょう?


そう、たとえ高2の体育祭の時に3日連続で雨天延期に見舞われて、友達の家に約1週間泊まることになったとしても

「生徒会長って本当雨男〜、私の力を持ってしても勝てないって逆に凄くない?」

くらいにしか思っていなかった。


昨日も私がお店に向かう30分前からゲリラ豪雨に見舞われ、全身びしょ濡れになったとしても

「イベントに来ている人の誰かが雨男か雨女なんだな!きっと。どんまい!」

と思っていた。

自分が雨女という可能性は一切無し。

好きな天気はもちろん晴れ。だから私は晴れ女。

ふと、何故ここまで頑なに信じているんだろうと考えてみた。


父は昔から私のことを晴れ女と言っていた。
それを微塵も疑わずに今まで生きてきた。
逆に、父以外から晴れ女と言われたことってないかもしれない。


けれど長い年月(といっても20年くらい)を経て、
かけられた言葉の重みを感じた。


人の思考は、与えられた言葉に大きく影響を受けるのだ。

だからこそ「何を伝えるか」「何を伝えないか」の取捨選択ってとても大切。


という訳で、タイトルの『呪術廻戦』より呪言師、狗巻棘の登場。

作品中では呪言はかなり殺傷力があり、その力が強ければ強いほど、自分にも返ってくる力が強くなっていく姿が幾度も描かれている。


だから普段は相手への配慮を込めて、おにぎりの具で会話をしている。もちろんキャラ付けという意味合いは多分にあるのだろうが、それよりも言葉の力を制御するための鍵であるのだという解釈の方が私は好きだ。

それだけ「呪言」=「言葉」の持つ強さを知っているから。


「いつ」使うのか。
「どこで」伝えるのか。
「誰に」向けているのか。
「どんな」言葉を放つのか。
「なぜ」その言葉なのか。


「言葉」の力の強さを表している、いい例だ。


言葉には、自分だけの変化ならまだしも、他人を大きく左右するような力を秘めている。


でもきっと、それが人と人が交わること。
コミュニケーションを取るということ。


人と関わることを避けることはできないのだから、私は今以上に想像力を養って自分の放つ言葉の強さを自覚し続けていたい。


無自覚の暴力を振るいたくないし、振るわれたくないからこそ言葉を粗末にする人とは積極的に離れる。

noteやthreads、ブクログなどを通して、自分の思いや考えを世界に向けて発信しているからこそ。


自戒の意味も込めて、棘から学んだことを書いてみた。

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桜
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