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「あずき」

 小学校を卒業するまで、私は大きな団地に住んでいた。学校も習い事も買い物も遊び場も全部、四角い建物が建ち並ぶ団地の中にあった。団地の敷地を出て広い通りや川を越えた向こう側は「団地外(だんちがい)」と呼ぶ未知の区域で、そこに遊びに行くことは、ささやかな冒険だった。

 団地の中にある小学校の児童は、ほとんどが団地内に住む子ども達だったが、クラスに2,3人は、団地外から通ってくる、いわゆる「一軒家の子」がいた。私が4年生の時に同じクラスになった武田君もそのひとりだった。

 武田君は小柄で短髪。真っ黒に日焼けしたひょうきんな男子だった。6歳の頃から毎朝欠かさずお父さんと一緒にマラソンを続けているということが地域の新聞にも載り、ちょっとした有名人でもあった。もちろん、校内のマラソン大会ではいつも二位以下を大きく離して一位になった。
 
 武田くんの家は、団地から20分ほど歩いたところにあるお米屋さんだった。サラリーマン家庭の多い団地の子にとって、友だちの家が「お店」をやっているというのは目新しい。すぐそばには田んぼが広がり、雑木林や神社がある。コンクリートの建物と整備された公園でばかり遊んでいた団地の子にとっては、新鮮な遊び場だった。

 放課後、クラスのリーダー格のミチコが「団地外に行こうよ!」と言えば、それは武田君ちに遊びに行こうということだった。

 お店の裏には精米所があって、大きな精米機がしゃわんしゃわんと音を立てていた。店先にはお米の他に、木でできた大きな升に入れられた豆類が、まるで夜店のビー玉やおはじきのように、むき出しで並んでいた。私に名前が分かるのは小豆と大豆だけだったけれど、そのほかにも白い豆、黒い豆、緑の小さい豆の升があり、手を中に入れてじゃわじゃわと触ってみたいと、何度思ったかしれない。

 店先にはいつも武田君のお母さんがいて、近所のおばさんと話しこんでいた。精米はおじいさんがやっていた。武田くんのお父さんは会社員なのか、平日は家にいなかった。

 私たちは、よくかくれんぼや缶蹴りをして遊んだ。団地内でするときとは違って、団地外には隠れる場所の種類がたくさんあった。あんまりありすぎて全員が見つかるまでに時間もかかったし、時には途中でうやむやになったりもした。

 あるとき、かくれんぼの途中で私は、武田君が精米所裏の倉庫に隠れていることに気がついた。古い道具や雑誌や家具など、雑多な物の並んだ隅で、武田君はかくれんぼそっちのけで漫画を読んでいたのだ。

 最初、私の気配に飛び上がるように立ち上がった武田君だが、私がオニじゃないとわかるとニタッ笑って、近くにあった漫画本を差し出した。初めて見る少年誌だった。「ぜんぶ兄ちゃんのだけどな」と武田君は言った。

 それから幾度か、べつに示し合わせたわけではないけれど、二人で倉庫に隠れて漫画を読んだ。オニが近づいた気配がするとべつべつの扉から逃げたりするのが、なんとなく秘密めいていて楽しかった。当然、ミチコにも誰にも内緒にしていた。

  そんなある日、またあそこに隠れようと精米所に近づくと、「あずちゃんこっち!」と、ミチコに手を引っ張られた。

「今ならおじいさんもいないし、ここに隠れていようよ」と、私の手を握ったまま精米機のそばにしゃがみ込む。私は武田君の隠れ場所がこの奥にあることがミチコに分かってしまったら残念だなぁと思いながら、精米機の立てるしゃわんしゃわんという音を聞いていた。

 間近で規則的な音は続く。もしもここに小石かなにか、別の物が入ったらどんな音がするんだろうと、ふっとそんな好奇心が胸をかすめた。するとそれが聞こえたかのようにミチコが、
「ねぇ、ここに小豆を入れたらどんな音がすると思う?」とささやいた。
「え?」
「面白そうでしょ?」

 そう言いながら、ミチコは私のスカートのポケットに手を入れた。どうして私のスカートに? と驚いて腰を引くと、スカートから出て来たミチコの手が何かを握っている。にやにやしながらその手を開くと、手の平には数粒の赤茶色い小豆が乗っていた。なんで? と言う間もなく、ミチコはそれを玄米の投入口から注ぐ。途端に精米機からは異質な音がし始めた。

「逃げるよ!」
 そう言って外に走り出たミチコを、私も慌てて追った。走りながらポケットに手を入れると小豆が手に触れた。ポケットごと引きちぎるように裏返して小豆を道端に放った。ミチコの背中を見ながら、転げるように団地の中まで走って帰った。

 その夜はなかなか寝付けなかった。お風呂に入る時に服を脱ぐと、どこからかまたパラパラッと小豆がこぼれた。私は急いでそれを拾い集めて、お風呂場の窓から外に放った。

 小豆はきっと、武田精米店にある、あの大きな升の中のものだろう。でもどうして私のスカートのポケットに入っていたんだろう。どうしてミチコがそれを知っていたんだろう。それより、お米は大丈夫だっただろうか、機械は壊れなかっただろうか。何度か見かけた武田君のおじいちゃんの顔を思い浮かべ、「ごめんなさい」を何度も唱えた。小豆のこぼれる音がいつまでも頭の中でこだました。
 
 次の日は学校に行くのが怖かった。武田君に会うのが怖かった。精米機について、何か言われるんじゃないか、あの後、騒ぎになったんじゃないだろうかと。でも、だれもそんな話はしていないようだった。

 昼休みになると、そばを通りかかった武田君が「昨日、いつの間に帰ったん?」と声をかけてきた。すると、どこからかミチコが現れて、私の手を引いて廊下まで引っ張って行く。その手の感じが、昨日のことを思い出させるから怖くて黙っていると、

「私、あずちゃんの代わりに謝っておいたからね、小豆のこと」
 と、私の両手を取って年下の者を慰めるようにミチコが言った。
「なんで? それなら私もミッちゃんと一緒に謝ったのに」
 ミチコは先に立って団地の中まで走って逃げたではないか。あの後ひとりで団地外に戻ったんだろうか?

「だって、うちのママとタケちゃんちのお母さんはとっても仲がいいんだ。だから、私が謝ったんだよ」
 意味が全く分からなかった。だって、そもそもミチコが……
「でもあれは、ミッちゃんが……」
「やだなぁ、あずちゃん、何言ってるの? あずちゃんがポケットに小豆を持ってたんだからね。私は一緒にいただけだよ。でも、代わりに謝ってあげたんだよ、叱られてあげたんだよ」忘れないでよねと、怒ったようにそう念を押して、ミチコはさっさと教室に戻って行った。何がなんだか分からなかった。
 
 次の時間は体育で、ドッヂボールをした。なんとなく、女子からはいつもよりボールを当てられる回数が多い気がしたけれど、男子はいつものようにフォローしてくれた。武田君の態度も変わりがなかった。そうして教室に戻って服を着替えようとした時だ。持ち上げたスカートから、パラパラっと何かがこぼれ落ちた。……小豆だった。

「なんだよ、この豆」
「小豆じゃねーの?」
 見つけた男子が騒ぐから、私は慌ててしゃがんで小豆を拾った。

「あずさが、あずき拾ってる!」
 と、ひときわ大きな声で言ったのはミチコだった。
「あずさがあずき! あずき! あずき!」
 
 それからいつも、何時の間にか、ポケットに小豆が入っていた。スカートでも、上着でも、手提げでも、ポケットというポケットから小豆が出て来た。そのうち、ポケットに手を入れたときの小豆の感触が怖くなって、私はポケットを使えなくなってしまった。ポケットの奥に手を入れることが怖くてたまらなくなっていた。

 ミチコと遊ぶことはほとんどなくなった。同時に、団地外に遊びに行くこともなくなった。そのまま5年生になり6年生になった。相変わらずポケットには手を入れられず、脱いだ服を逆さにして振ると、ときどき小豆が降った。女子には「あずき」と呼ばれ続け、私はひとりでいることが多くなった。
 
 きっとミチコは、私が武田君とふたりで隠れたりするのを知ってやきもちを妬いたんだろう、小豆は最初からミチコが握っていたんだろう、隙を見てあちこちのポケットに小豆を忍ばせ続けたのもミチコだろうと、なんとなく想像はできたけれど、だからといってそれを話す相手もいなかったし、どう説明していいのかもわからなかった。
 
 もうすぐ小学校を卒業というとき、父が団地の近くに家を買い、引っ越しをして、私は団地外の子になった。中学校は武田君と同じ、団地の外の中学に入学したので、ミチコや多数の級友とは離ればなれになった。ミチコの顔を見ることもなくなり、「あずき」と呼ばれることもなくなって心底ほっとした。それでもまだ、ポケットに手を入れるのは怖かった。むしろ、ポケットを使わないことに慣れてしまってもいた。
 
 武田君は陸上部に入り、相変わらずの人気者だった。少し遠い存在になっていたけれど、2年生になって同じクラスになると、自然と前のように話せるようになった。話しているうちに、おじいさんが2年前に亡くなったこと、精米所は壊してしまい、今はただの広い庭になっていることも知った。

「ほら、昔いっしょに隠れた倉庫あっただろ、あれももう、ないんだぜ」
「そうなんだ……」
 もう無いと分かって、私はなんだかやっと、精米所のことを安心して思い出せる気がした。それで、
「ねぇ、あの頃、小豆のことで何かなかった?」
 と訊いてみた。
「あずき?」
「誰かに、精米機に小豆を入れられたとか……」
「精米機に小石ならあるけどな。俺がガキの頃に入れたんだ。じいちゃんにこっぴどく叱られたよ。でも、小豆のことは知らないよ」
「そうなの……?」

 それなら、ミチコが謝ったというのはうそなんだろうか、そもそも、ミチコが小豆を入れて、その音を聞いたのも私の勘違いだったんだろうか。あのときちらっと「小石を入れたら……」と考えた。だから、「あずちゃんがやった」とミチコから何度も言われるうちに、だんだん自分がやったような気になったりもした。ポケットにあった小豆が何よりの証拠のような気もして怖かった。武田君の家のそばは二度と通れなかった。すっかりポケットが怖くて手を入れられなくなってしまった。

 なのに、なんにもなかったなんて……。
 
「ところで、今日、上着のポケットの中、見た?」
 その時は掃除中で、上着は教室に置いていた。
「どうして? 見てないよ。絶対に見ないもん、ポケットなんか」
「なんで?」
「何か出て来そうで怖いんだ」
「何かって、たとえばなんだよ」
「……小豆とか」
「また小豆かよ。小豆がどうかしたの?」

 私は、小学生の頃にポケットから頻繁に小豆が出て来たことを初めて人に話した。でも、ミチコの名前は出さなかった。武田君にミチコのことを思い出して欲しくなかったからかもしれない。
 
「ポケットに手を入れると小豆が出て来るなんて、そりゃあ絶対に、小豆婆の仕業だよ」
「あずきばぁ?」
「妖怪だよ、妖怪」
「そんな妖怪いるの?」
「いるさ。調べてみろよ」
 武田くんは自信満々だ。
「そうか、そうなんだ。妖怪じゃぁ、しょうがないね」
「そうそう、しょうがないのさ。怖がってるといつまでもつきまとわれるぞ」

 妖怪は妖怪で怖いけれど、ミチコの執拗な行動だと思うよりもずっと理解がしやすい。
「うん、きっとそうだね、妖怪小豆婆の仕業だったんだ」
 そう言ってみると、全てが遠い出来事になっていくようだった。
「だからさ、ポケットの中、見てみろよ。マラソン大会で河口湖に行ったから、ひとつだけ買ったんだ、お土産」 
 そう言うと武田君は、「見てこいよ」というように指で教室内を指した。
 
 私に? 私だけにお土産? ポケットの中を見るのが楽しみだなんて、いったい何年ぶりだろう。

 教室に入って、椅子の背に掛けていた上着のポケットに触れてみた。右側のポケットに、小さな丸い膨らみがあった。小豆……じゃないよね? おそるおそる上着を持ち上げて振ってみたら、チリンと涼やかな音がした。

(終)

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