春の欠片を閉じ込めて
こんにちは。みなさんお元気でしょうか。
春の陽気が少しずつ舞い込んできたようですね。私の住む国では、もう春を通り越して夏がきてしまったようで春への未練を心に感じています。日本から遠く離れた国に住んでいると、春の情緒をも失ってしまうので寂しい限りです。
もうすっかり桜が満開ですね。といっても、私はその事を友人から送られてきた写真たちで知ったのですけれど。
桜を私に届けてくれた彼女は、小学校からの付き合いで、とっても尊敬している大切な友人。
そんな彼女が「わたしの中の○○のイメージフラワーはさくらよ」と言ってくれました。花言葉に「精神の美」「あなたに微笑む」というものがあって、それが私にぴったりだ。って。
そんな素敵な花と言葉を贈ってもらえて、なんだかとても幸せな気持ちになりました。そんな人になれるように日々を生きていきたいものです。
さて、今日お話したいのは写真についてのこと。
写真というのは素敵なものです。
写真は、遠くにいるあなたへ、私たちの生活の欠片を届けてくれます。
ふと見返して、過去の音、匂い、気持ち、あの頃をそのままを感じることができます。
だけれど、写真を撮るためには、いま目の前にある景色にレンズを挟まなければなりません。すなわち「大切な瞬間を写真に収めようとするほど私たちはその瞬間を自身の目では見ることができない」ということ。
未来へ思い出を連れて行くためには、それ相応の対価が必要なのです。
最近、ふと「なぜ自分は写真を撮るのか」と考えます。
そこにどうしても「SNSに写真を載せるため」という答えがでてきてしまうのが自分の中ではもやもやで。
素敵な写真が撮れたからSNSに載せるのか
SNSに載せるために素敵な写真を撮るのか
この因果関係が入れ替わってはいけないな、と日々自分に言い聞かせます。
これが逆になってしまうと、人生の中で巡り会う素敵な瞬間に本当の意味で向き合うことができなくなります。
その瞬間を自分の目で、肌で、心で感じるからこそ写真はその想いを留めてくれるのであって、その経験が抜け落ちてしまえばその写真はただの色の集合です。
そうなってしまっては本末転倒です。ありゃりゃ ホンマツテントウ虫。
このフレーズにびびっときたそこのあなた、毎朝7時から15分間、あの頃きっと私たちは同じ時間を過ごしていましたね。
なんだか最近は、桜をただの背景にして感情すらも消し去るほどの作り笑顔で写真を撮ることが日常になってしまっている気がします。
だけれど、いいねをもらうためだけに撮った、表情がすっかり隠れてしまった写真に私たちはいったいどんな感情をのせることができるでしょうか。
私たちが切り取るのは、きっと景色だけではなくて
彼がはにかんだ時にできる目尻のしわに感じた愛しさとか
友達と一緒になって必死につかんだ舞い落ちる花びらの感触とか
好きだった彼が桜の下で口ずさんでいた指田郁也の「花になれ」とか
きっと、そういう類いのものたち。
形に残すことのできない記憶の欠片を、写真は鮮明なままで大切にしまっておいてくれます。
そして、ふと見返したときに心の奥にしまっていた幸せの欠片たちを思い出すことができるのです。
儚いものほど、私たちは写真にうつして永遠を作り出そうとします。
だけれど、儚いからこそ記憶の中に強く映し出すためにじっと見つめて向き合っていたい。
たとえ保存できなくとも、本当に大切なものは私の心が覚えています。
写真は素晴らしいです。
でもそれ以上に私は、目の前に広がる素敵がいっぱい詰まった世界にまっすぐに何も隔てることなく向き合っていきたいと思うのです。
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