自分が生きた証を残したいのだと思う。
母は、私が2歳のときに他界した。
父は私が30代のときに亡くなり、かわいがってくれた祖父母もすでに他界している。
父のときは、私が最期を看取った。
月並みな言い方だけれど、親の最後を看取ったことで、私の死生観や人生観が変わった。
こうしてnoteを書くことも、仕事に思い悩むことも、全ては私がこの世に生きた証を残したいからだと、最近は思う。
私という人間が、確かにこの世に存在した証として。
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以前、黒澤明監督の「生きる」という映画を観た。
内容は、市役所に勤める男が癌になり、生きる意味を求めて公園をつくる話だったと記憶している。
当時20代だった私には、ピンとこなかった。
少なくとも、琴線にふれることにはならなかった。
今、自分が40代となり、あの映画をもう一度見てみたいと思う。
そのストーリーを思い出しただけでも、今の私には、主人公の男の気持ちがわかるからだ。
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人生100年時代と言われるようになっても、平均寿命が約80歳だとしたら、私は人生の折り返し地点を過ぎたことになる。
残りの人生で、職業人生も含めて「自分の残された時間で何ができるだろう」と考える。
仕事を通して(仕事以外でも)、どんな社会貢献ができるだろう、と。
両親や祖父母を亡くしたことで、人の最期を知った。
特に、最期を看取らせてもらった父からは、死をもって「生きること」を教えてもらった気がする。
だから、私は生きることに必死なのだ(私だけではないけれど)。
より良く豊かに、幸せに生きることを求め、日々もがいている。
夫からは、「(私は)生きることが大変だね」と言われる(そう、夫は優しいのだ)。
私は不器用さもあって、夫からは生きづらそうに見えるようだ。
noteでの発信も、キャリアチェンジへの挑戦も、全ては自分が生きた証を残したいからなのだと気づいた。
それも、私の大切な人たちが命をもって私に教えてくれたのだ。
あなたは残された人生をどう生きるのか、と。
ときどき心を休めながらも、自分の不器用さを受け入れて、もがき続ければいいのだと思う。
なんだかんだ言って、私はいま、そこそこ幸せだ。
週末に、映画「生きる」を観てみよう。
20代で観たときと40代の今とでは、どのように見方が変わるのか、自分の変化が今から楽しみだ。
歳を重ねることも悪くない、と思う。