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自分が生きた証を残したいのだと思う。



母は、私が2歳のときに他界した。

父は私が30代のときに亡くなり、かわいがってくれた祖父母もすでに他界している。

父のときは、私が最期を看取った。

月並みな言い方だけれど、親の最後を看取ったことで、私の死生観人生観が変わった。



こうしてnoteを書くことも、仕事に思い悩むことも、全ては私がこの世に生きた証を残したいからだと、最近は思う。

私という人間が、確かにこの世に存在した証として。



*****



以前、黒澤明監督の「生きる」という映画を観た。

内容は、市役所に勤める男が癌になり、生きる意味を求めて公園をつくる話だったと記憶している。

当時20代だった私には、ピンとこなかった。

少なくとも、琴線にふれることにはならなかった。

今、自分が40代となり、あの映画をもう一度見てみたいと思う。

そのストーリーを思い出しただけでも、今の私には、主人公の男の気持ちがわかるからだ。



*****



人生100年時代と言われるようになっても、平均寿命が約80歳だとしたら、私は人生の折り返し地点を過ぎたことになる。

残りの人生で、職業人生も含めて「自分の残された時間で何ができるだろう」と考える。

仕事を通して(仕事以外でも)、どんな社会貢献ができるだろう、と。



両親や祖父母を亡くしたことで、人の最期を知った。

特に、最期を看取らせてもらった父からは、死をもって「生きること」を教えてもらった気がする。




だから、私は生きることに必死なのだ(私だけではないけれど)。

より良く豊かに、幸せに生きることを求め、日々もがいている。




夫からは、「(私は)生きることが大変だね」と言われる(そう、夫は優しいのだ)。

私は不器用さもあって、夫からは生きづらそうに見えるようだ。




noteでの発信も、キャリアチェンジへの挑戦も、全ては自分が生きた証を残したいからなのだと気づいた。

それも、私の大切な人たちが命をもって私に教えてくれたのだ。

あなたは残された人生をどう生きるのか、と。



ときどき心を休めながらも、自分の不器用さを受け入れて、もがき続ければいいのだと思う。

なんだかんだ言って、私はいま、そこそこ幸せだ。



週末に、映画「生きる」を観てみよう。

20代で観たときと40代の今とでは、どのように見方が変わるのか、自分の変化が今から楽しみだ。

歳を重ねることも悪くない、と思う。

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