ワーパパと群集心理
こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。
群集心理
「群集心理」はフランスの心理学者ル・ボンの著作です。
ル・ボンが生まれたのは1841年。
フランス大革命の中でルイ16世が処刑されたのが1793年。
二月革命が起きたのが1848年。
ル・ボンはそのようなフランスにおける激動の時代であり、共和制となった直後を生きた人でした。
群集心理は、1895年に刊行されました。
序文には以下のように記されています。
フランス革命は、絶対王政の後に起きた出来事であり、民衆が王権を撤廃させ、貴族や聖職者といった特権階級から民衆が特権を奪い、群衆の時代となる契機となったものと言えると思います。
ル・ボンは、その群衆について調べて考察をしていき、群集心理という著作にまとめました。
この群集心理は、民主主義においてナチスドイツが第一党になったことや、現代のSNSにおける炎上にも通ずるものがあります。
群衆
ル・ボンは、フランス革命の後に群衆の時代が来たことに、強い危機感を持っていました。
ル・ボンは、群衆を以下のように捉えています。
単純な個人の集合という意味ではなく、特定の心理作用を起こした人々を指しています。
それらは以下の特徴を有しています。
意識的個性の消滅
感情や観念の同一方向への転換
ここでは人数の大小は関わりありません。
考え方が統一されて一つの方向に濁流のように流れていく「心理的群衆」を指しています。
自動人形
ル・ボンは、群衆を以下のように言っています。
この自動人形となった群衆中の個人には、以下の特徴があります。
衝動的で、動揺しやすい
暗示を受けやすく、物事を軽々しく信ずる
感情が誇張的で、単純であること
偏狭さと横暴さと保守的傾向
これらの特徴により、「みんながやっている」という理由で非常に攻撃的になるといいます。
受け入れやすい思想
群衆は、咀嚼しなくても吸収できる単純な思想を受け入れやすいと、ル・ボンはいいます。
例えば、フランス大革命においては啓蒙思想がその契機になったと言われます。
それが民衆に本当の意味で根付くまでにはかなりの時間を要しましたが、実際に群衆を動かしたのは啓蒙思想が何たるかではなく、「王政打倒」というわかりやすい標語だったのかもしれません。
このような単純化された思想しか受け入れられないということは、自分なりに考えて推論する力がないとも言えます。
群衆が用いる論法は、類似の点を取り上げて、それを論拠としてしまうことです。
それが十分な考察がされないものであっても、都合の良い情報のみをあつめてそれを結論としてしまいます。
そして、群衆は心象としてインパクトがあるものに飛びつきます。
百個の小さな出来事よりも、一つの目を引くものに心を動かされます。
インパクトがあるワンフレーズに引き込まれてしまいます。
道理によって群衆は止まりません。
ロジックではなくエモーショナルに、群衆好みの言葉をもって、想像力を刺激することで群衆は行動します。
群衆を動かすもの
歴史上、いくつもの指導者たちが人々の考える力を奪って、群衆を動かしてきました。
その群衆を動かす手段として大きく三つの要素が挙げられます。
断言
反復
感染
「○○かもしれない」ではなく「我々が苦しいのはユダヤ人のせいだ」と断定します。
そしてそれを何度も何度も反復していきます。
ナチスの広報大臣のゲッベルスは「嘘も百回いえば真実になる」と言いました。
そして、このような意見は酒場等の場で感染していきます。
酔った人たちが、酒場で断言した物言いで反復をし、それが感染していきます。
このようにして、インパクトがある言葉が感染していき、群衆となっていきます。
群衆の徳性
群衆は悪い方向にも行けば、善い方向にもいくことがあります。
例えば、マハトマ・ガンディーによって行われた塩の行進などは、この徳性にあたるのかもしれません。
災害が発生したときに多くのボランティアが被災地のサポートをするのも、その徳性かもしれません。
群衆は、率いられる思想や進行によって良くも悪くもなります。
ル・ボンは、何によって率いられるのかは一人ひとりが選び取れるものであり、そしてそれは「教育」によって変わっていくといいます。
ここでの「現代の教育法」とは、教科書を鵜呑みにするような詰め込み型の教育を指しているそうです。
必要な教育は、物事を鵜呑みにせず、疑う視点を持ち、人と異なる意見を持つことを恐れないことを育むことだと言います。
ワーパパと群集心理
群集心理の解説書を読んで、現代のSNSにつきまとう炎上と構造的に似ているものを感じました。
また、ポピュリズムに陥った民主主義とも似ているように思えます。
読んでいて強く感じたことは「わかったつもり」になることでした。
わかりやすく提示されたものに対して、本当にそうなのかと疑問を持つ姿勢が大切だと感じます。
そして「聡明な自分は群衆にはなりえない」「なんて愚かな人たちで溢れているのだ」と、自分を過信して他者を蔑むといったことも避ける必要があると感じました。
わかりずらいものを許容する力を、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びますが、今はその力が求められているように思えます。
わからないものがあることを認め、それと向き合うようには、胆力が必要となります。
私が哲学に関する書籍を読むようにしているのは、このネガティブ・ケイパビリティを求めているのだなと気が付きました。
そして可能な限り、一つの解説書で終わらせずに、原著、そして他の視点の解説書を読んで、「わかったつもり」にならない精神性を身に着けたいと思いました。
子どもたちが受けている日本の公教育、そして学習塾でのインプットは、基本的には答えがあることへの向き合いです。
暗記はもちろんそうですが、算数・数学でやっていることも答えが用意されています。
ネガティブ・ケイパビリティは、例えば部活で活躍できない自分との向き合い、課外活動での他者との向き合い、思ったとおりに行かない世の中との向き合いの中で育まれるものだと感じます。
また、本を読むことで、二次的に様々な経験を積むこともできると思います。
子どもたちには、そのような経験をする機会を与えることが親がすべき大切なことなのかもしれません。