#名刺代わりの小説10選
以前中島浮世さんがこのタグを紹介されていて、楽しそうだなぁやってみたいなぁと思いつつ、ちょうど引っ越しでバタバタの時期だったのでそのままになってしまっていた。
引っ越しが落ち着き、本棚の整理も済んだので、ようやく書いてみようと思う。
10冊を選んでみて、自分であらためて思ったのは
「子どもじみている」
だった。
実際児童書が多いというのもあるのだが、それだけではない。私が「名刺代わり」だと考える、つまり自分の価値観形成にかかわっていると思う読書体験は、ほぼ小学生〜大学生のあいだのものなのだ。
もちろん大人になってからも小説は読んでいるが、それが自分の価値観を変えた、みたいなことはあまりない、気がする。
そもそも30歳を過ぎてからは、新しい作家に手を出すことが少ない。ライナスの毛布みたいに、好きな作家の好きな作品、馴染んだ文体をくり返し読んでいる。
エッセイや専門書でもその傾向はあるのだが、特に小説って、「別の世界」に行かなくてはならない。年とともに、新しい世界に踏み出すことが怖く、また面倒くさくなってしまっている。SNSやYouTubeなど、小説に代わる手軽な娯楽が増えていることが、面倒くささに拍車をかけている。
これは私だけなのだろうか、それとも多かれ少なかれみんな同じようなものなのだろうか。40そこそこでこんなにも怠惰になってしまって、この先の人生大丈夫だろうか。
ぜひ皆さんのご意見をお聞きしたい…と前置きしつつ、私の10冊を挙げてみます。
小公女(バーネット)
このタグを知ったとき、いちばん最初に浮かんだ本。よく「あなたのヒーローは誰ですか?」という質問があるけれど、私のヒーローあらためヒロインは間違いなくサアラである。
父の転勤の関係で私は3つの小学校に通ったのだが、転校するたび、カルチャーショックに悩まされた。あとから母に聞いたことだが、はじめての転校のときは夢遊病になっていたらしい。
そんな私がずっと心の支えにしていたのは、『小公女』のサアラだった。どんな逆境に立たされようとも「公女さま」の誇りを忘れず、気高く在ろうとするサアラ。先生たちからしたらさぞ可愛げのない子どもだっただろうなと思うが、いつもサアラをお手本にして、「絶対に負けない」と思っていた。
私が愛読していたのは新潮文庫の、伊藤整訳のもの。第一刷の発行はなんと昭和28年。あらためて読むと、字もめちゃくちゃ小さいし明らかに大人向けの文章である(当時でも小公女といえば「セーラ」が一般的で、「サアラ」と古めかしく表記しているのはこの訳だけだったと思う)。子どもというのは大人が思うよりはるかにたくさんのことを理解できるんだな、と、大人になったいま思う。
やかまし村の子どもたち(リンドグレーン)
リンドグレーンの本がとにかく好きで、有名な『長くつ下のピッピ』より何より、やかまし村シリーズが大好きだった。
スウェーデンののどかな農村で暮らす子どもたちを描いたシリーズで、基本的に、何も突飛な事件は起こらない。村に家は3軒しかなく、3軒の家に住む6人の子どもたちが日々遊んだり、長い道のりを歩いて学校に通ったり、遊んだり、クリスマスを祝ったり、遊んだり、サクランボを収穫したり、遊んだりしている。
自分とはかけ離れたところにあるその「生活」のリアルさと、子どもたちの自由さに心の底から憧れた。
淡々と「生活」を描く物語が好きなのは、まちがいなくやかまし村の影響だと思う。本をひらけばいつでも、あの穏やかな場所に帰ることができる。
余談だけど、やかまし村を含めていま私が所有している児童文庫はほとんど、離婚前の不安定な時期に買い直したものだ。あの時期は児童書しか読めなかった。昔から親しんでいる世界に身を置いていると安心だった。あれはおそらく一種の赤ちゃん返りだったのだろう、と思っている。
小さな家シリーズ(ワイルダー)
これも小学生のころ、何度も読み返したシリーズ。特に『シルバー湖のほとりで』以降の、少し大人になったローラが好きだった。『農場の少年』は唯一男の子が主人公だが、美味しそうな食べものがたくさん出てくるのが嬉しい。
ずっと青い鳥文庫のもの(渡辺南都子・こだまともこ訳)を愛読していて、大人になってから一度手放してしまったのだが、やはり他の新訳ではしっくりこなくて数年前に青い鳥文庫をメルカリで買い直した。こういう翻訳ものって、安易に手放さないほうがいいよねえ。
おそらくローラの両親より年上になったいま読み返すと、開拓者としての彼らの生きる力、無謀なまでのたくましさにあらためて驚く。
たとえばナルニア国シリーズや『とぶ船』など、ファンタジーものもたくさん読んできたはずなのだが、名刺代わりの…と考えると、やはり地に足ついた「生活」を描いた作品を選んでしまうのが我ながら興味深いな。
TUGUMI(吉本ばなな)
小学生のころは前述のような外国の児童文学を読むことが多く、中学生になってから徐々に日本の小説も読むようになった。そのきっかけになったのが吉本ばなな。『キッチン』は当時の私には少し大人っぽすぎて、『ムーンライト・シャドウ』と『TUGUMI』を何度も読んだ。私も知っているはずの身近な風景を、こんなにも瑞々しい言葉で描写できる人がいるのだ、と衝撃を受けた。
色白の美しいクラスメイトを勝手につぐみに重ねて、いいなああんなふうに生まれたかったなあ、と思っていた記憶がある。笑
冷静と情熱のあいだ(江國香織)
おそらく中3か高1のころ江國香織に出会い、没頭して読んだ。中でも影響を受けたのがこの本。これも恋愛小説の部分だけでなく、日々の読書やお風呂、カフェやスーパーマーケットやジュエリーといった、「生活」のディテールに惹かれたのだと思う。
大学時代に初めてイタリアへ旅行したとき、フィレンツェよりローマよりヴェネツィアより、私が行きたかったのはミラノだった。「カエルの庭」はたしか通り過ぎるだけで終わってしまったけれど、あおいが生活していたはずのミラノに行けたことが嬉しかった。
それにしてもこうして振り返ると、サアラからあおいまで、なんというか…マインドが孤高の美女すぎる…!!
見た目はかけ離れているのに、心の中に孤高の美女たちを住まわせてしまったことが、いまに至るまで私の恋愛下手につながっている気がする。笑
細雪(谷崎潤一郎)
大学のときに好きだった先輩が好きだと言っていて、あまり興味がなかったのに無理して読み始めたら、まんまとハマった。
これも、三姉妹(正確には四姉妹だが)の「生活」がたまらなく好きだ。花見で着る着物だのお見合い前の身支度や化粧だの、神戸での外食だの。関西で暮らすことに魅力を感じるようになったのも、考えてみたらこの作品がきっかけかもしれない。
年齢とともに少しずつ視点が変わり、鶴子姉ちゃんも大変だよなあとか貞之助さん良い旦那だよなあ等という、近所のおばちゃん目線で読むようになっている。
幸子の快活さも妙子の奔放も愛おしいが、私はやっぱり雪子を推してしまう。孤高の美女枠…。
秘密の花園(三浦しをん)
女子校を舞台にした物語は、どことなく不穏なものが多い。
実際の女子校生活というのは大らかで開けっぴろげで、どちらかというと『女の園の星』(漫画だけど)とかがイメージに近いが、それでいて不穏なほうの小説にも惹かれてしまうのは、私たちの学校生活にもやっぱりそういう不穏さの兆しがあったのだろう。不穏じゃない10代なんて多分ない。
『秘密の花園』は、カトリックの女子校に通う少女たちの危うくて大胆不敵で、切りたての花の茎みたいに青い匂いがする小説。読むたびに心がざわざわする。懐かしい、とかではなく、もっと現在進行形の鋭いざわざわ。
いま初めて三浦しをん氏のWikipediaを見たら横浜雙葉出身と書いてあって、なるほど、と腑に落ちた。
(お父上が大学の名誉教授だというのも初めて知った!エッセイのイメージとかけ離れている…笑)
アヒルと鴨のコインロッカー(伊坂幸太郎)
これまでにも書いてきたように、わりと淡々として何も起こらない小説が好きなので、この本はなんだか斬新な読書体験だった。伏線回収やどんでん返しの面白さ、みたいなものをようやく理解したような気がする。
もちろんストーリー構築だけでなく、訥々とした文体や滲み出る優しさもすごく好き。男性作家のなかでいちばん、「文体そのものが好き!」と思う作家かもしれない。
かのこちゃんとマドレーヌ夫人(万城目学)
平易な文章と小さな世界の中に、すべてがある、と思う小説。こんなにもまっすぐに夫婦愛(それだけでは勿論ないんだけど)が描かれている作品をほかに知らない。
実は私は幼少期のトラウマがあって猫がかなり苦手なのだが、これを読んで、少なくとも猫という概念(?)は好きになった。ミュージカル『CATS』といい、猫という生き物はえてして詩的だ。
孤宿の人(宮部みゆき)
宮部みゆきの作品は数が膨大な上にジャンルも幅広く、「#好きな宮部みゆき10選」とかだけで別記事を書けそうなのだが、今回思い浮かんだのはこれ。
明るい小説ではない、と思う。これでもかというほど残酷で、哀しい。でも絶望はさせない。
『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』もそうなのだが、大人になってから惹かれる小説には「名もない小さきもの」が途方もない強さと美しさを放つ瞬間、があるように思う。その瞬間を見たくて、何度でもまたページを開いてしまうのだ。
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