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波のまにまに巡り酒 〜新橋ガード下の鶏皮ポン酢と鶏レバー エピソード0
時計の針が午後8時を回った。
「今日も長かったな……」
俺——波田 響(はだ ひびき)は、ラジオ局の営業として一日の仕事を終え、ネクタイを緩めながら新橋駅へと歩いていた。
仕事の終わり、次の始まり
今回の仕事は、オフィスから近い西新橋で大手広告代理店との打ち合わせ。長年ラジオ番組のスポンサーを務める企業の案件だったが、最近は広告のデジタルシフトが進み、ラジオ業界の立場は厳しくなる一方だった。
「テレビCMとセットなら……」
「いや、やはりWeb広告のほうが効果的で……」
「でもラジオのリスナー層はコアですし……」
そんなやりとりを繰り返していた。
FM局の朝の情報番組へのスポンサー提案もきついなぁ…。
広告代理店側の調整もあって、なかなか話が進まない。
ターゲットは働く世代。ラジオの情報番組との親和性は高いはずだった。
「それに、CMを聞いたリスナーは結構忠実ですよ。“この前ラジオで聞いたやつ、買ってみた”っていうの、意外とあるんですよね。」
「……なるほど。でも、社内で稟議を通すには、もうちょっと説得材料が必要かもしれませんね。」
担当者が資料をまとめながら、少し困った顔をしながら言う。
「あの〜、追加でリスナー層のデータとか、過去の成功事例とか、何か出せます?」
「もちろん用意しますよ。じゃあ、改めてご提案の機会をいただけますか?」
「大丈夫ですよ。助かります。波田さん、やっぱりラジオ愛がありますよね。」
その言葉に、俺はふっと笑った。
「まあ、この仕事が好きじゃなきゃ、営業なんて続けられませんから。」
営業は数字が全て——そんな世界だけど、こういう瞬間があるから、まだこの仕事を続けられるのかもしれない。
「でも、ラジオっていいですよね。」
ふと、担当者が言った。
「通勤中に聞くと、なんか落ち着くんですよ。テレビより柔らかくて、親近感があるような感じがするじゃないですか、それもラジオのいいところですよね。」
その言葉に、俺は少し救われた気がした。
「そう言ってもらえると嬉しいです。」
「じゃあ、また連絡しますね!」
そう言い残し、代理店の担当者がエレベーターに消えていく。
見送った瞬間、ようやく肩の力が抜ける。
このまま電車に乗って帰るか、それともどこかで一杯飲むか——。
西新橋の夜の空気を吸い込んだ瞬間、決断はすぐに固まった。
とことこ歩き新橋のガード下の通りを歩く。
仕事終わりのサラリーマンで賑わうこの界隈は、どこも活気に満ちている。
ビールジョッキを掲げる笑い声、焼き鳥の煙が漂い香ばしい匂い。
「さて、今日はどこに入るか……」
ふと目についたのは、少し奥まった場所にある小さな酒場。赤ちょうちんがぶら下がり、扉の向こうから人の気配がする。
俺は、迷うことなく暖簾をくぐった。
『やきとり たつみ』
「いらっしゃい!」
店主の威勢のいい声が迎える。
カウンターの端に腰を下ろし、瓶ビールを注文する。
「この瞬間のために働いてるようなもんだよな……」
グラスに注ぎ、一口。喉を駆け抜ける苦味とコク。程よく冷えた液体が、仕事の疲れをじんわりと溶かしていく。
さて、まずは…、焼き鳥かな。ねぎま、つくね、レバーを頼んだ。
焼き台の前では、店主が手際よく串を返し、脂が滴るたびに小さな炎が立ち上る。
そんなとき、隣の男が話しかけてきた。
「……お兄さん、一人?」
初老の男だった。髪はボサボサ、スーツはシワだらけで、ネクタイも緩みきっている。
「ああ、まあ」
「そっか、そっか……」
男はニヤリと笑い、グラスを揺らす。
店主が焼き鳥を差し出すと、男は一本手に取り、ぽつりと呟いた。
「この店、ずっと来たかったんだよなぁ……」
「この店、昔、一緒に来たことがあるんですよ。」
「へえ、誰と?」
「でも、それを知ってるのは俺だけなんだ。」
……何かがおかしい。
店主がため息をついた。
「……あんた、タケさんの知り合いか?」
男は静かに頷いた。
タケさん——それは、十年前に毎日のようにこの店に通っていた常連の名前だった。
「タケさんが……もうこの店にはいないって、知ってるか?」
「……ああ。」
「じゃあ、なんで今さら?」
男はグラスを置き、小さく笑った。
「タケさんが、俺を呼んだんだよ。」
男はグラスを傾けながら、焼き鳥をゆっくり口に運ぶ。
「タケさんはな、ここで毎晩飲んでた。特にレバーの塩が好きでな……」
俺は驚いて、自分が注文したレバーに目を落とした。
「レバーは普段タレ派だけど、ここは塩の方がいいのか……?」
俺はすかさず「すみません、レバーをもう一本!塩で!」
「レバー塩ですね、はいよ!」
そういえば、男の知り合いというタケさんは毎回決まっていた席に座っていたのかな?
初老とはいえこの人は見た感じ60くらい。でも、タケさんは同い年とは限らないし、若いうちに亡くなってしまったのか。
そんなことを考えながらレバーが焼けた。
塩はあまり食べないが、どうだろう。
あつあつのレバーを頬張ると、タレでは味わえなかった濃厚な旨味。程よく炙られた表面と、中のねっとりとした舌触りが絶妙!この半生に近い絶妙な焼き加減が塩との相性が抜群だな!
「うまいな……」
俺は、ふと男が食べていた皿に目を向けた。
「……なんだ、このうまそうなやつは」
刻まれたネギがたっぷり乗った、とり皮ポン酢。
「すみません、俺もください」
皿が差し出される。ポン酢の酸味と、カリカリの鶏皮の香ばしさが最高の組み合わせだった。
「これは……間違いないな」
さらに、ハツ、手羽先、つくねを追加。
「次は日本酒にしようかな…」波田が呟くと、店主がニヤリと笑った。
「なら、十四代いっときますか?」
波田は驚いた。十四代といえば、日本酒好きなら誰もが知る名酒。
「それ、飲めるんですか?」
「今ならね。たまたま入ったんですよ」
迷うことなく注文した。
店主が慎重に注いだ透明な液体からは、ふわりと甘い香りが立ち上る。
口に含むと、上品な甘みとキレのある後味が広がった。
「…最高ですね」
思わずため息が漏れる。
隣の初老の男は鶏皮ポン酢を一気にかき込みお酒をぐびっと飲み、少し黙り込んだ後、「また来るよ、大将」と言い残して店を出ていった。
波田は、何かを言うべきか迷ったが、言葉が出なかった。
俺は店主に聞いた。「あの方の知り合いって?」
「今日は、特別な日だったなぁ…」
波田は首を傾げた。
「特別な日?」
店主はゆっくりと頷いた。
「この人の親友が…ちょうど一年前の今日、この店で最後の酒を飲んでね」
「…そうか、そういうことだったのか。」
静かになったカウンターで、波田は特別な十四代を飲みながらさっきの光景を思い出していた。
(あの人にとって、この店は特別な場所なんだな)
「…俺にとっても、そうなるかもしれないな」
グラスの向こうに広がる、新橋らしい夜景。
波田は静かに杯を傾け、時計を見た。
「そろそろ帰るか」
会計を済ませ、店を出ると俺は深く息を吸い込み、もう一度店を振り返った。
「やっぱり、こういう店がいいんだよな……」
いい店は、いいタイミングで現れるもんだ
俺は気持ちよく駅の改札に帰ることにした。