佐久穂町の昔の集落の暮らし 大石④~水と共にあった暮らし~
川沿いの集落、大石。大石水源にもほど近く、豊富で良質な水と暮らしがとても密接にあったようです。今回は大石公民館にお集まりいただいた皆さんに、昔の集落の暮らしを教えていただきました。何十年も共に過ごした気心知れた仲間同士でのお話は、生き生きと当時の様子を映し出します。
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お話を伺ったのは…
<大石在住>
菊池 常雄さん(87)
篠原 春之助さん(83)
島崎 暁子さん(82)
菊池 千賀子さん(81)
菊池 光夫さん(77)
相馬 元一さん(81)
西沢 茂人さん(73)
(座っていた席の順に記載)
男性陣は生まれてからずっと大石で暮らしていると話してくれました。女性陣は途中で外に働きに行ったり、お嫁に来てから暮らしていたりしましたが、長くここで暮らす皆さんです。
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水車の話
篠原 春之助さん(以下 春)「水車が大石川にあったんだ。(穀物を)潰して粉にしたり、色々なことに水車が必要だった。昔は精米機なんてなかったから。」
インタビュアー(以下 イ)「川の水の力を使っていたんですね。」
相馬 元一さん(以下 元)「こういうポールみたいのを使って(お米をついたんだ)。」
菊池 光夫さん(以下 光)「杵じゃんか。埒あかねえよな(笑)」
イ「お米をつくのに、結構時間がかかるんですね。」
春「子どもは米つくのが、仕事だった。」
イ「精米するのと、小麦を粉にするのに水車を使ったんですね。お蕎麦にも使いましたか?」
春「蕎麦は、(家に)大きい石臼があってね。大人が回して歩いたね。牛じゃなくて人間がやったんです。一番外側は木で、潰すところが石だった。荒いものと、粉と分けて。粉をすくって、それでそばを打っただ。なかなか大変だったな。」
光「俺の家の近くの車屋(水車のこと)は、石臼が3つあっただ。」
イ「それだけ力がある水車、水量だったんですね。玄米から白米にするのを水車でやって、するす(籾摺り)のはまた別ですか?」
春「おらが子どもの頃はな、上畑の人が籾摺り機を持ってて。そん時もうエンジンがあっただよな。摺ってもらったのを、水車で(精米して)。籾摺り機はあったけど、精米機はなかったからな。」
イ「籾摺り機はあったんですね!」
春「10馬力のエンジンの、クボタのやつな。おらほの子どもの頃にやったけど、回して(エンジンを)つけるのが難しかったよな。その前は石臼みたいのでやったのかな?」
菊池 千賀子さん(以下 千)「車屋の中に、お米つくやつ(精米するもの)と、籾摺りで使うやつがあったよ。ぬかはぬかで、分けたね。」
春「つくときの、米ぬかはあったもんな。袋に入れて、動物にくれるのに持ってきただから。」
イ「その仕事は男の子、女の子、どちらもやったんですか?」
春「大体男の子だったね。精米は危ないからさ。棒が上がって、落差でストーンと落ちるからな。棒に羽がついてて、水車の力で持ち上げて、回りきると羽が外れて落ちるんだ。」
千「私は親と一緒に行って、やった記憶がある。」
菊池 常雄さん(以下 常)「水車は(地域の人で)順番で管理してな。」
農民体操が有線で流れていた!
元「農民体操ってのもあっただ。みんなやってたよ。」
イ「それは、どういうタイミングでやるんですか?」
元「有線で流して各家庭でやってただ。大石が発祥なんだ。聞いたことない?農民体操って。」
光「昭和34年から始まっただよ。」
元「佐久病院に若月院長さんがいた頃、ここに佐久総合病院の人が来て、各部落回ってたじゃん。集団的な検診みたいなのやってたんだよな。」
イ「だから皆さんお元気なんですね。」
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水が豊富な大石ならではの水車のエピソード。水車は全部で6つあり、住民で管理していたそうです。次回は、公民館にしまってあった江戸時代の大石の地図とともに、大石の道路や集落の様子を話していただきました。引き続きご覧ください。
次回はこちら――――
文 櫻井麻美
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