松井こぼれ話
須田敬二さんは、開拓者の3代目。「おらっちのじいさんが戦前に開拓に入った。5軒だったかな。戦後の開拓政策で、30軒ぐらいの入植者があった。今は、15軒になってしまった。」
夏季大学のメンバーになった。「みんな若かったから、その年のテーマを決めるのに、議論を戦わせた。今、思うと懐かしい思い出だ。でも、一番の思い出は、夏季大学の講座を通して村民に学ぶ姿勢が生まれたこと。村民の勉強したいという気質もあって、講師とは熱心に議論したな。」
夏季大学で、有名人を呼んだのですかと聞くと、「おらっちが年少者だったので、『敬二、誰か連れて来い。』、と言われて、上條恒彦さんを連れてきたことがあった。 全くの偶然で、小海町の稲子の湯に農業仲間と行ったら、そこに上條さんがいた。『上條さんじゃねえかい。おらたちは有機農業をやっているけんど、八千穂夏季大学ってもんがあるんだが、歌を歌いに来ないかい』、と誘ったら、いいよという返事をもらった。講師には3万円の謝金しか渡せないけんど、それでいいかい、と言うと、いいよという返事をもらい、夏季大学最終日のイベントで歌ってもらった。』
有名人を呼ぶアプローチを知らず、すぐに相手と直接交渉をしてしまう。それが新鮮だったのか、水上勉さんや遠藤周作さんにも直接交渉で、夏季大学の講師になってもらった。講師料は3万円。「一番面白かったのは、四手井綱英(しでいつなひで)さんを呼んだ時だったかな。森林生態学者で、ラジオで話を聞いて、面白そうだったので、当時は京都府立大学学長だったので、直接、大学に電話をして、講師をお願いした。講師料は3万円しか払えないから、おらっちの家に泊めた。そんな交渉が出来たのも、怖いもの知らずだったからかな。」
現在では考えられない交渉の仕方だが、直接相手と交渉するので、人間性がでる。田舎の何も知らない若者たちが「学びたい」、という思いで交渉し、実現させてしまう。相手との間には何物も介在しない。素の人間同士で話をし、相手を説得させてしまう。人間と人間が近かった時代だからできたのだと思う。
文・西村寛
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