集落再発見 上畑編 ② 響き石(ひびきいし)
上畑に住む須田紀男さんの家は、江戸時代から続く古い家柄である。戌の満水(寛保2年8月 西暦1742年)で家は流され、古文書も流出した。現在の上畑区に住居を構えて以降の古文書は、大切に蔵に保管されている。寛保の川流れ(戌の満水のことをこの地域の人は呼ぶ)後に建てた家は藁ぶきの家で、築220年以上経っていた。残念ながら、昭和43年(西暦1968年)に取り壊された。
古文書だけでなく、貴重な石も見せてもらった。石の内部に空洞があり、その中に砂が固まってできた小さな石が、振ると音を出す。
石が入っている箱の蓋には、"寛政11年(西暦1798年)に手に入れた"と書いてある。220年以上も前の石である。蓋の裏面には肥前(現在の佐賀県から長崎県にかけて存在した、江戸時代の藩名である)と書かれてあった。
小諸市古文書調査室に勤務する、大日向在住の小須田基弘さんに見てもらったところ、江戸時代の古文書は漢字に平仮名が混じっていることが多く、このような純粋の漢文だけの古文書は珍しいという。
小須田さんに一部解読していただいた。
以下小須田さんの意訳を書く。
「顰眉石(ひんび石)についての序文と銘……寛政11年5月のある日、須田政吉が13歳の時に子供たちが石ころを転がして遊んでいるところに出逢った。そこに一つの石があり、転がっていき、声があった(聞こえた)。政吉はこれを持って家に帰った。とても珍しいので……。 諸人が疑って眉をひそめたというのがこの名のいわれである。少林山桂霄寺の主 黙道しるす」
*顰…しかめる。ひそめる。
小須田さんの解読のおかげで、一部その内容が判明した。旧佐久町にある桂霄寺の住職であったお坊さんが蓋の裏面に『肥前国』と記したようだが、何故そう記したのか謎は残ります。
文:西村寛
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