「御物作り」について語る会を行いました
12月7日。茂来館にて「御物作り」について語る会を行いました。今回はその様子をご報告したいと思います。
当日は御物作りに興味をお持ちの方5名と、「佐久穂町むかしたんけん館」所属の方3名、集落支援員3名の計11名が集まりました。
以前穴原の内藤東さんが作ってくださった御物の刀、俵、オンベの三種と、その日の朝、参加者の高見澤宝輔さんが作ってくださった刀、俵、ケエカキボウ(かゆかきぼう)を会場に飾り、それらを拝見しながら話を伺いました。
ケエカキボウは初めて拝見したので、どんなものなのか尋ねると「杭のように先を尖らせる。尖っていない方のてっぺんには十字の切り込みを入れたもの。おかゆを混ぜるのに使ったりもしたし、田んぼの水口に立てて、豊作祈願にも使った。バツ(十字)になっているところにイネノハナと呼ばれていたオマイダマを刺してた。」
「小正月の後も取っておいて、春になると苗間の入口に立てて、無事収穫できるようにとお祈りもした。苗代の時に目印としても使った。」と参加者の方から教えていただきました。
今回の参加者で実際に作ったことがある方は1名。作っているところを子どもの頃見ていたという方は3名(作ったことある方含む)でした。
井出栄さんのお話(馬越)
唯一自分で作成したことがあるという栄さん。
「作ったのはそうさなぁ。中学卒業したころ作ったかもしんねえな。親が作っているの見て、見まねで。うちは俵の表には金銀俵って書いた。他には米、麦、豆など五穀豊穣を祈るものが多かった。書く言葉は家によって違ったな。俵を結ぶのは綯った縄で。細縄※1で、左縄※2で作った。囲炉裏端で昼間に作っていた。」
※1 藁を2本だけで綯った縄。普通は3本でなう。
※2 左縄とは左向きになった縄のこと。普通は右向き。神様に通じる行事や、ニッカン(入棺)の時も左縄を使用した。
番外編ですが、馬越では年の暮れに武田信玄に攻められた影響で「おらほ(私たち)では門松は外に飾らない。内飾りって言って家の中の土間に飾った」といったお話も教えてくださいました。餅をついているタイミングだったから暮れにつくことは止めた家もあったそうです。
高見澤宝輔さんのお話(上出身)
「うちではやってなかったけど、周りでやっていた人はいた。得意な人は作ってたし、よてない(苦手な)人は作らないし。作らなくても誰も怒らないから。子どもが刀を差して歩いたなんてのは見たことがない。誰もやってなかったんじゃないかな。
今回作ってきたのは『長野県南佐久郡八千穂村佐口民俗誌稿』(長野県史刊行会民俗資料調査委員会編、1980年刊)に作り方も寸法も書いてあるので、それを参考に。今朝のこぎりと鉈で作ってきた。」
井出利松さんのお話(馬越)
「うちでは他に鋤や鍬、杵も作った。昔は囲炉裏だったから、火箸で穴開けて作っていた。大体どこの家でもやっていたと思うよ。
うちの親は半日くらいかけて作っていたかな。親父が御物を作って、おふくろがオマイダマ作って。同じ囲炉裏を囲ってそれぞれが作業していた。」
利松さんにはこちらで以前詳しくお話伺ってますのでご覧ください。
松澤昭一さんのお話(高野町)
「町のほうでは全然やらなかった。もっと山手のほうでやるものだと思っていた。」
小林隆さんのお話(高根)
「戌の満水の影響なのか、高根では全く残っていない。御物作りなんて言葉も全然知らなかった。」
まるめ年のはなし
御物作りと一緒に作ったというオマイダマ(繭玉)づくり。御物作りと異なって皆様体験されていたようで、話が盛り上がりました。14日に行う行事としてはこちらのほうが印象が強い方が多かったように感じました。
二又や三又の柳の枝を、初山のとき御物作りのノリデッポウと一緒に採りに行って、柳の木のことはミツボシサンと言ったり、大きいものはオニノメなんて言ったりもしたそうです。
オマイダマの形はただ丸いのもあれば、繭にしたり小判にしたり、とんがらかしてホウシンダマにしたり多種多様。「姑が嫁に作らせて、嫁が姑になったらまた作らせて、家によって変わってきたんじゃないかな。」食紅をつけて、赤や青にもして。色がつくときれいだったそうです。「作業の主体はお嫁さんだったけど、姑も子どもだって、喜んで手伝った」と、家族総出の行事だったことも分かりました。
オマイダマはお汁粉にして食べたり、寒ざらしにしてひび割れたのを粉にして袋に入れて取っておいたそうです。「おなかを壊したときなんかにそれをお湯で溶いて食べたりしたな。」と教えていただきました。「ひびの入り具合を見ながらだったし、いつまで飾るかは家々によって違ったんじゃないかな。子どものころは内緒で飾ってあるのを盗ってこたつの炭であぶって食べたりした」という思い出話も飛び出ました。
今回のイベントで分かったこと
・御物作りで作るものは家によって異なった
・人によって(得意不得意)も異なった
・まるめ年(オマイダマづくり)は皆さんやっていた
・行事が残っているかどうかは地域差がある
特に最後の項目は強く感じました。同じ地域でも、ほんの数年の生まれた年の差が経験の差に繋がっていたので、社会の変化が起こっていたことを感じました。
次回は実際に御物を皆さんに作っていただいた、体験会の様子をお伝えします。
文:永井
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