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馬との暮らし 馬越:井出栄さんのお話

八千穂高原インターから、国道299号を山手方面に向かう。しばらく行った所を左に曲がり、坂道を登った丘の上に、馬越まごえの集落がある。

井出栄さんに、馬の土曳きの話を尋ねると「井出福博さんが土曳きをした材木で、NHKのアンテナを建てた。いくつも。おらほは、土曳きをした両手抱えもある丸太を、8本くらい薬につけて削って継ぎ手して建てた。」と教えてくれた。その当時は、材木を使ってアンテナを建てたのだそう。

栄さんの家では、農耕馬として栗毛色の牝馬を飼っていた。馬は、まだ耕運機や車がない時代の田起こし・田掻きをしたり、運送として桑の葉や米を運んだりしていた。
「家族で1頭飼い、毎年種付けして1頭生まれる。良い馬になれば、軍馬として良い値が付くからな。川上(村)、南牧(村)では何頭も飼っていた。耕地がうんと広いから。臼田や田口(佐久市)あたりの人は、春先が早いから川上から馬を借りて、それで田んぼし終わると、川上に返しに行ってた。夏は、千代里牧場(小海町)で放牧していた。秋には引き上げて、寒い時には家で飼っていた。」栄さんの馬は、牝馬ながら先頭を走り、他の馬をひき連れて走るリーダー的な馬だったそうだ。

そんなリーダー的な母馬が産んだ仔馬のうち、何頭かは軍馬になったという。毎年、種付場に連れていき、生まれた仔馬は、馬流まながし(小海町)まで売りに行ったそうだ。母馬は、売られてしまった夜から2〜3日はいななき悲しんだそうだ。「馬が売られる時期は決まっている。馬も牛も生まれた子と半年は一緒にいる。離すときは嫌だよ。せつないで。」と栄さん。

馬は足が速く扱いが大変なため、田んぼの鼻取りをしていても泥だらけになるが、仕事は速くあっという間に終わる。逆に牛は、馬に比べて眠くなるほど作業が遅いという。
馬の繁殖期である春先は大変だった。「牡馬がヒヒーンと鳴くずら。牝馬も反応する。あっちの田んぼ、こっちの田んぼでヒヒンと鳴くと大変で、飛び出しっちまうことがある。一緒にいれば引きずられる。馬は背も高いし力も強い。放すと飛んでいくから危なかっただよ。」と話す。

栄さんの馬は、昭和24、25年頃まで飼っていたそうだ。農耕馬のほとんどは牝馬で、気性が穏やかだからだそうだ。

子どもの頃、栄さんは馬越から片道5キロの旧北牧小学校(現北牧楽集館)まで通っていた。現在の佐久総合病院小海分院には、当時種付場があり、近くで子どもたちが写生会をしていた。偶然にも種付けを絵に描いてしまった人が先生に叱られていたと、馬にまつわる思い出話も教えてくれた。

戦後、徐々に車社会になり、運送に馬の力を必要としなくなった。すると、農耕には穏やかで扱いやすく飼い主の体力にも合わせられるという理由で、馬よりも牛を飼う人が増えていったようだ。

馬とは話がそれるが、家畜の種付けについて興味深い話も栄さんから聞いた。
ヤギと牛の種付けに、昔は伝書鳩が使われていたという。「良質なヤギや牛の種と卵の黄身とクエン酸を混ぜる。それを瓶に詰めて鳩の背中に括り付け、群馬の家畜試験場や駒場のヤギ試験場の基地から飛ばしていただよ。何よりも新鮮で早かった。たまに迷った鳩もあったみてえだけどな。」栄さんは、迷い鳩を見たことがあるそうだ。
伝書鳩は試験場の管理する鳩だそうで、各地の種付けをしている牧場へ飛ばしていた。
町で他の方に伝書鳩の存在を聞いてみると、大日向の3区や、高野町の神社の近くで飼っていた人がいたという情報もあった。いずれも、本人は亡くなられたとのことで、もう詳しい話を聞ける人もいなくなってしまったと、残念に思った。


話を聴き終えた後、栄さんが馬とともに暮らしていた明治元年築のお宅を拝見した。その家の土間で餅をつき、つきたてのお餅を馬にもあげたそうだ。人と馬が同じ屋根の下で生活をしていた当時の様子を想像し、とても温かい気持ちになった。


明治元年築の家では馬と暮らした
馬がいた場所

文:大波多

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