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集落再発見 天神町② 出浦医院

八千穂駅から南に80メートルほど進むと、道が二股に分かれる。その分かれる道の右側に平屋木造家屋(一部二階建て)がある。出浦医院である。玄関を入るとそこは畳敷きの待合室。寒くなるとそこに掘りごたつが置かれる。待合室の右側にレントゲン室、左側に受付と薬局、その隣が診察室、手術室と続く。

出浦医院全景

出浦公正(たかまさ)医師は、軍医として満州に渡る。終戦後、穂積村(現在は佐久穂町)に戻り、昭和21年に医院を開く。昭和51年には八千穂村村長に当選し、医師と村長職を兼務する多忙な日々を送る。

次男の出浦正任(まさひで)さんにお話を伺った。「親父は几帳面な性格で、毎朝7時には必ず診察を始めてました。村が一つの家族だなと思ったのは、お年寄りが待合室で待っていても、子供が来ると、学校に遅刻するから先にやりな、と言ってるのをよく聞いてました。」
車好きの公正(たかまさ)医師にまつわる話が面白かった。「最初は、馬で往診をしていたようですが、オートバイが手に入るとわかると、アメリカで一番古いオートバイメーカーのインディアンを購入。その後、750ccのハーレーに乗り換えた。ものすごい音を出すオートバイで『ドッ、ドッ、ドッ、ドッ』と地響きを立てながら往診に行ってました。」
更に、車好きの話が続きます。「オートバイの後は、ホンダのS500というスポーツカーから始まりS800まで買い替えて乗ってました。」

町医者らしいエピソードもいくつか話してくれました。「よく覚えているのは、患者が『風邪を引いたから見てくれ』、と言うと『誰が風邪って決めるんだ。決めるのはオレだ。』とか、
『ちょっと調子が悪いんで、注射打ってくれや。』、と言うと『注射を打つ、打たないを決めるのオレだ。』、というやり取りをしてました。」一見、乱暴な言葉のやり取りをしているように思えますが、人と人の距離が近い時代だからこその光景だと懐かしくもありました。」その当時の町医者は地域と密接につながっていた。公正(たかまさ)医師は校医もしていたので、子供がどこの集落の誰かを知っているし、親の顔も覚えている。結婚相談や生まれた子供の名付け親もしていたらしい。

最後に母親の話をしてくれた。「母親は白い割烹着を着て、診察が始まる1時間前から、注射器セット(シリンダ―、ポンプ、針)を入れた金属の箱をいくつも煮沸消毒をしていました。」
この話を聞いて、出浦ふとん店の店主、守康(もりやす)さんから聞いた話を思い出した。「学校の帰り道、山に入ってチャンバラに使う枝取りをしてると、間違って漆の木に触ってかぶれることがしょっちゅうでした。そんな時、出浦医院に行くと、奥さんが『あら、あら、また来ちゃったの。』、と上品で、優しい言葉遣いで田舎の子どもに話しかけてくれました。子ども心にも何て親しみのある言葉なんだろうと思いました。」

体を悪くされた公正(たかまさ)医師は昭和63年に医院を閉じられ、平成8年に永眠されました。

文:西村

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