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今までと働き方が変わり、ペースダウンしている関係で、昨年までより早く帰れるし、平日に一人でコーヒーを飲む時間が取れています
もちろん、それと引き換えに収入は落ちています
が、それに関しては今後の展望も踏まえて納得できています

いつもより早く保育園にお迎えに行くことや多くの人が働く中でカフェに入ること
それらの行動は今まで希望していたこと、その働き方に向けてあれこれ試行錯誤してきたこと
それなのに、なぜだかソワソワ
なんだか、心の底からは落ち着かない気がする
そんな気持ちを今日びしびしと感じました

昨日の記事にも書きましたが、その気持ちの正体は
おそらく 罪悪感 だろう
と思うのです

***

なぜ、罪悪感を感じるのか??

自転車で走りながら、お昼ご飯を食べながら、ぼーっと考えてみました

おそらく
・夫の勤務時間への思い
・「働く」の捉え方
が大きく影響しているのかな、という答えにたどり着きました

***

夫の勤務時間

夫は自動車の営業マン
出会った時から帰宅は21時過ぎが当たり前
繁忙期には午前様ということもザラ

一方で私は当時、病院勤務の理学療法士
自己研鑽のための残業はあれど、患者さんの夕飯時間もあるし、どんなに遅くても20時くらいまでには帰宅可能な感じでした

おそらく、この辺りから「ほぼ定時で上がれる自分」と「長時間勤務の夫」を無意識に比較していたのだろうなと
最近になって気づきました

おそらく、そんな無意識をもっていたからか、「私も忙しくならなくては」という謎な強迫感が生まれ
理学療法士としてのキャリアにも迷っていたこともあり、社会人大学院への進学を決めました(人生で一番忙しくてやつれた)
大学院修了後も出産、育児、時短勤務と忙しくしていましたが、第二子の育休復帰あたりから、キャリアというか自分の生き方へ向き合い始めていたこともあり転職をきめました

この転職の時、仕事の内容と同等、もしくはそれ以上に意識していたのが「目いっぱい働きたい」という気持ち
子供がいるので限界がありますが、夫が迎えに行ける日は残業をできるような環境を探していたことを思い出しました(前職は時短の人は絶対に残業できなかった)

そんなことを振り返って気づいたのが、夫の勤務時間と比較して短いことが私の存在価値を下げる一因だと思い込んでいたということです

誰に言われたわけでもないのに、勝手に
「夫と同等に働くことで、私の価値を認めてほしい」
と思い込んでいたのかもしれません

定時に上がれるから価値がない
時短だから価値がない

誰にもそんなこと言われたことないのに、なぜかそう思い込んでいたんだと思います

きっとその思い込みが根底にあったからこそ
今の、この緩めな働き方に対して
「そんな休んでいいの?」
とセルフつっこみが入っていたんだと思います

それ故の罪悪感

***

思ったよりも長文になってしまいましたので、「働く」の捉え方についてはまた明日書こうと思います

自分と向き合い始めてそれなりに時間が経過していますが、尽きることなく新たな気づきがあるものですね・・・

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