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『正法眼蔵』by道元を読んで
福井の曹洞宗永平寺に行く機会があり、開山した道元についても知っておきたいと思い、『正法眼蔵』を読んでみました。
別け隔てなく生きる
仏道をならうというは自己をならうなり
自己をならうというは自己をわするるなり
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
自転車を無意識に漕げるようになったとき、執着も他者性もなくなり、私と自転車は、一体となる。自己と他己をも分けることなく、同事という領域まで持っていくことに寄って、執着心をなくす。
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。 万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし
悟りの世界:自我意識も、迷いも、悟りたいと言う気持ちも、他人(他人の心身:蜘蛛の糸:)も同化する。
灰は灰。薪は薪。灰が薪に戻ることはない。
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。
今このときをしっかり観ろよ。生きろよ。
道元の時間に対する考え方も面白い。過去現在未来があるのでなく、今を行きている自分がいるだけ。ただその状態であるだけ。その中で今行きている。
私たちは、仏性の中で生きている
一切衆生、悉有仏性
一切は衆生なり・悉有が仏性なり。道元はこう読んだ。命あるものは皆、仏性という世界で生きている。大小の仏性が宿っているのでなく、仏性という宇宙の中で生かされている。その宇宙の中で生きているのだから、悟りは開くものでなく、やってくるもの。包まれている感覚。
名付けるから分かれる。
すべてが修行である
行住坐臥(歩き、止まり、座り、臥す、日常のふるまい)、それすべてが修行である。
布施、愛語、利行、同事
その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。 愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。 利行は一法なり、同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。
利行・同事は、自他不二であり、相手と自分は同じ人間だと思うということ
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