無音のバイオリン弾き 1
夏がまた戻ってきたような暑い日、カメラを首から下げて私はじっと立っていた。
河川敷は地面からの照り返しが酷く、あまり歩く人もいない。
ギラギラと容赦ない光に目を細めて眉間にシワを寄せて歩く人、ここぞとばかりにランニングで汗を絞り出す人がたまに通るぐらいだ。
もうそろそろ40分は経っている。
私は人を待っているのだ。
この場所に相応しいその人は必ずやって来る。
私の撮影の進め方は、当てもなく歩き背景となる場所を決める。
そして、その場所でひたすら待つのだ。
誰でもいい訳ではない。
大抵は具体的なイメージが浮かんでくる。
今日の場所に立つべき人は、黒いジャケットを着ている男性だ。
さっきから私は遠くを見て黒いジャケットが歩いて来ないか目を凝らしている。
でも、こんな暑い日の影もない堤防の上をジャケットを着て歩く人なんていない。
そりゃそうだ。
「そんな物好きな奴いるかよ」
私は自分に突っ込んだ。
人物のイメージを変えようとしたが、私の頭の中は頑固で、どうしてもジャケットを着せたいらしい。
それもそのはずだ。
私は関わりのある実在の人物をそこに投影しているからだ。
ほぼ大嫌いなのに離れたくない写真家だ。
その写真家は黒しか着ない。
そして必ずと言っていいほど襟付きのシャツとジャケットを着ている。
華奢な体つきなので襟が無いと貧相に見えるからというのもあるのだろうけど、いつもきちんとしていると思われている自分が好きなのだ。
写真家は私を側に置いてくれているが冷たい。
昨日はどういう訳か機嫌が良く、ギターを弾いて聴かせてくれた。
それがどれ位上手なのか私には分からないけれど、皆にはテクニシャンだと言われるらしい。
喧嘩や小競り合いが多い私達には珍しく昨日は楽しく過ごせた。
昨日を写真に閉じ込めたくて私は道行く人に写真家の影を探した。
遠くの堤防に黒い点が見えた。
来た。
私は感じた。
黒いのはジャケットなのかスウェットなのか、男なのか女なのかもまだ判断出来ないけれど、何故か確信があった。
少しずつ大きくなる黒い塊。
黒いジャケットの男性だ。
しかもスーツ。
そして、手に何か取っ手の付いた小さく固そうなケースを持っている。
バイオリンだった。
もう絶対に彼で間違いない。
こんな暑い日にカメラを持って日陰の無い河川敷でただじっと待っている私が言えた事ではないが、こんな暑い日にスーツでバイオリン持って日陰の無い河川敷を歩いてるなんてどうかしている。
彼は一歩ずつこちらに近付き、私達の距離が2メートルになった時、私は彼に会釈した。
彼は私の胸のカメラに軽く目をやり、にこやかに笑い返した。
「こんにちは。あなたを待ってたんです」
彼は不思議そうな顔をした。
「この場所で黒いジャケットを着た男性を撮りたかったんです。そしたら、黒いスーツにバイオリンケースまで持った人が来たんです」
彼は笑った。
「へぇー、僕は今日なぜかいつも通らないこの道を歩きたくなったんです」
「いつもこんな人が来て欲しいと思うと、本当に来てくれるんです。だからやっぱりあなただと思うんです」
「そうかも知れませんね」
何かを表現しようとしている人や一つの事に打ち込む人とは話が早い。
きっと皆、自分の分野で偶然のような必然を何度も体験しているのだろう。
「じゃあ、良ければこの辺りに立って貰えますか?」
私は早速撮影に入ろうとした。
すると彼はこう言った。
「それより、いつも僕が練習している場所があるんですけど、一緒に行きませんか?
その橋の下なんですけど」
彼はすぐ近くの電車の線路が通る大きな橋を指さした。
「行きたいです!」
私は即答した。
なんて面白い展開なんだろう。
私は嬉しくなった。
橋の下にはそのうち草に埋め尽くされそうな小さな空間が広がっていた。
大きな河川敷なので、堤防を川寄りに降りてから川にたどり着くまで2、30メートルはあるだろう。
「ここじゃなくて、川沿いまで行くんです」
彼はそう言ってその狭い空間を取り囲む背丈くらいに伸びた草に残るけもの道を川に向かって進んでいく。
道は段々と細くなり最後には手でかき分けるように進む。
私は少し怖くなり不安になった。
付いてきて大丈夫だったのかな。
「ここです」
やっぱり戻りますと言おうとした矢先、彼が言った。
草が途切れた。
思いのほか広い空間が広がっていた。
川の流れがすぐそこに見えた。
真上には電車が通る橋があり、線路の隙間から光がチラチラと漏れ落ちてくる。
ステキな場所だった。
「わぁ!」
私は思わず声を上げた。
「こんな場所で練習してるんですね。ぜひバイオリンを聞いてみたい!」
少しの間の後にすまなさそうに彼は言った。
「まだ僕は誰かに聞かせるようなレベルじゃないんです」
私はガッカリしたが、無理強いしても仕方ないと思い諦めた。
「じゃあ、弾かなくてもいいから、バイオリンを構えたところを撮ってもいいですか?」
「ごめんなさい。見る人が見たら構え方で分かるので…」
歯切れの悪い返事だった。
暑い日にスーツを着込む意志はあるのに、バイオリンに関しては弱気な彼にどこかアンバランスなものを感じた。
何度か構えてもらうように頼むと、本体を顎で挟んで構えるのはいいけれど、弓を乗せたくないのだと彼は言った。
弓の置き方で技量が分かるのだそうだ。
そんなものなのか。
私はバイオリンに関しては知識が無いけれど、彼が嫌がる事を強要したくはない。
バイオリン本体だけを構えて弓は写さない事にした。
左利きの彼は探すのが大変だったというバイオリンを右手で顎の下に構えた。
弓を持つはずの左手は身体の横に降ろしたままだ。
私は胸から下げたカメラのレンズを覗いた。
二眼レフカメラは両手でカメラを包み込み上からそっと覗き込むように撮影する。
この感覚が大好きだ。
大切な瞬間を両手で優しく受け止めるような感覚。
彼はまっすぐこちらを見ている。
彼が見ているのはレンズだけれど、私はレンズを通して彼の目を見つめる。
片想いに似ているなといつも思う。
この少し切ない感じは嫌いじゃない。
レンズを覗いている間は、被写体と撮影者だけの濃密な時間だ。
音が消え、私達だけの世界が広がる。
彼の髪が突然ふわりと舞った。
静かなスローモーションのように揺れる髪。
美しいと思った。
その瞬間私はシャッターを切った。
レンズから顔を上げると周囲には耳をつんざく音が響いていた。
私達の頭上を轟音を立てて列車が走り抜けていたのだった。
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