BFC2*2回戦感想「ハッピー・バースデー」(論文風)

『オー・ヘンリー「賢者の贈り物」と冬乃くじ「ハッピー・バースデー」の比較から見るunblessedな世界観の構築と旧世界の訣別について』(場火惰大学紀要 vol.633)


1.はじめに
 正直に言えば、「ハッピー・バースデー」について、私は当初、ささやかな恋人たちのあたたかい物語、という形でしか見ることができなかった。しかし、作者本人のツイートから、これが「オー・ヘンリーへの挑戦状、祝福されない恋人たちへの贈り物」であるという解説がなされたため、後付け的ではあるが、両者を比較しての考察を試みたい。

2.「賢者の贈り物」について
 あまりにも有名な話であるため、蛇足的ではあるが、「賢者の贈り物」のあらすじを引用したい。

貧しいジェイムズ・ディリンガム・ヤング夫妻が相手にクリスマスプレゼントを買うお金を工面しようとする。
夫のジムは、祖父と父から受け継いだ金の懐中時計を大切にしていた。
妻のデラは、その金時計を吊るすプラチナの鎖を贈り物として買うかわりに、夫妻が誇るデラの美しい髪を、髪の毛を買い取る商人マダム・ソフロニーの元でバッサリ切り落とし、売ってしまう。
一方、夫のジムはデラが欲しがっていた鼈甲の櫛を買うために、自慢の懐中時計を質に入れてしまっていた。
物語の結末で、この一見愚かな行き違いは、しかし、最も賢明な行為であったと結ばれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A2%E8%80%85%E3%81%AE%E8%B4%88%E3%82%8A%E7%89%A9

 「賢者の贈り物」の文体の特徴として、”Which"、”And”など、文法にうるさい輩(grammer sticklers)からすると、あまりコレクトとは言えない文頭で始まる文が多い。これはつまり、文それぞれが依存関係にあり、それが口語的なリズムを生み出している要因でもある*1

 翻って「ハッピー・バースデー」においては、文末を終止形にすることで、現在起きていることとして読者の目の前に展開するような文型をとっている。個人的には、この終止形の統一は、「語り手」の存在をささやかに際立たせる効果があると思う。その点からいうと、作者が「語り手」を意識しているらしきことは、どちらの作品にも共通であると言えるかもしれない。

 しかし、一読した感じでは、「恋人同士の贈り物」以外に目立った共通点がないようにも思えるが、次項で精読していきたい。

3.「貧しさ」について
 「賢者の贈り物」では、夫婦の「貧しさ」が強調されている。オー・ヘンリーは、細部にその「貧しさ」を示す物を描写している。「ぼろぼろの小さなソファ(the shabby little couch)」「手紙の入らない郵便受け(letter-box into which no letter would go)」「鳴らない呼び鈴(an electric button from which no mortal finger could coax a ring)」など、現代的には少々やりすぎな感じもする描写である。

 一方の「ハッピー・バースデー」については、そこまで直接的な表現はない。物に対する直接的な言及としては、「欠けた皿」「擦り減った靴」が買い換えられない状況であることがわずかに描写されている。しかし、全体的に経済的に恵まれていなさそうな環境であることは、さりげない描写がいくつもある(「紙と鉛筆なら家にあるし」「隣駅まで歩き」「花を二本」など)。そもそも、誕生日プレゼントにレゴ(しかも正規品でもなさそう)を贈るという行為は、金銭的に余裕のある者がすることではないだろう。

 「賢者の贈り物」の「貧しさ」は、物語の展開上必要なギミックであると同時に、聖書を下敷きとした話として、この「劇的アイロニー(dramatic irony)」を善性に持っていくために不可欠な要素である。

 「ハッピー・バースデー」の「貧しさ」も、おおよそオー・ヘンリーの意図しているものと被っているように感じるが、しかし、「賢者の贈り物」の「貧しさ」が物質的な経済観点からの「貧しさ」だとすると、いみじくも作者が言及している通り、そこには何か、境遇的な面でも「祝福されない」という「貧しさ」も感じる。思い切って端的に言うと、彼らの「貧しさ」は「孤独」につながっているのではないか、ということだ。

 確かに「賢者の贈り物」の夫婦も、描写としては孤独である。しかし、物語上、髪を売る女主人や、(ジムの賃金の話から)仕事に関する描写など、社会とのつながりを両者には感じさせる。しかし、「ハッピー・バースデー」の二人には、むしろ積極的に社会を拒絶している(されている)ような印象を受ける。次項ではその点について考察したい。

4.イボ太郎について
 一見すると、レゴの話とイボ太郎の話に直接なつながりはない。だが、「ハッピー・バースデー」というタイトルを中心に置いて眺めると、そこに線対称の関係が見える。

 タイトルの解釈は3つある。1つ目はシンプルに、これが誕生日の話ということから、というもの。2つ目は、「イボ太郎」という存在を二人が作り出すこと。3つ目は、後述するラストの部分にあるように、新たな「世界」が立ち現れていくということ。

 イボ太郎に関する恋人の感情は象徴的である。

え、学校。恋人は顔を曇らせる。
大丈夫。悪いことは起こらない。
そうだよ、君の両親も。

 これは全て裏を返せば、彼らの人生の中で起こってきた出来事である、と考えられるだろう。憂鬱な学校生活、家族との関係。終盤に、家を出ることが「僕たちがそうだったように」と述懐しているように、彼らにとって社会は拒絶されるもの⇒拒絶していくものだった。この祝福されない「貧しさ」については、「賢者の贈り物」の夫婦よりも、より自発的な拒絶感が強い。

5.ラストについて
 「賢者の贈り物」のラストは、語り手の言葉で終わる。

And here I have lamely related to you the uneventful chronicle of two foolish children in a flat who most unwisely sacrificed for each other the greatest treasures of their house.But in a last word to the wise of these days let it be said that of all who give gifts these two were the wisest. Of all who give and receive gifts, such as they are wisest. Everywhere they are wisest. They are the magi.
さて、私は、不完全ながらも、二人の愚かなる子供の平凡な話をしてまいりました。 二人は分別あるとは言えない判断で、最も素敵な家の宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。けれど、現代に住む賢者たちへの最後の言葉として、二人が最も賢明であった、そう言わせていただきます。与えるものとしても、与えられるものとしても、この二人こそ最も賢いものである、と。彼らこそ、賢者なのです。

 この語り手の視点で締めるのは、「ハッピー・バースデー」も同じであり、「でもそのときの二人はまだ知らない」から立ち上がる物語は、二人から離れて描写がされる。

 しかし、「賢者の贈り物」が、既存の善性の世界=(神によって)祝福される世界の肯定であるとするならば、「ハッピー・バースデー」のラストは、新たな世界の構築である。踏み込んで書くことが許されるなら、既存の世界のルールの消極的な拒絶である。祝福されないものたち(unblessed)の、新たな(しかしささやかな)挑戦である。

 世界の拒絶、二人だけの世界、新たな世界の構築。そう、お気づきであろう、エヴァンゲリオンである。旧劇版のラストそのものである。この「ハッピー・バースデー」は、新たなセカイ系の挑戦として書かれた意欲作なのである!



教授コメント:少し落ち着きましょう。

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