英訳で「あれは真珠というものかしら」を深読みする
第1回かぐやSFコンテストで大賞を受賞した、勝山海百合さんの「あれは真珠というものかしら」の英訳を読みました。訳はEli K.P. Williamさん。
私は別に英語ができるわけでもないんですけど、物語の英訳って、ただ別の言語に変換するのではなく、作品の根幹を解釈する作業なのではないか、と思っています。
いくつか気になる点があったので、その気になる部分をとっかかりに、作品の解釈(深読みともいう)をしてみようと思います。
碩堰が女の子だった
印象的な名前をどのようにするか期待していたのですが、やはり表音の翻訳でした。ちょっと残念ですが、こればっかりは難しい。でも、碩堰の「Sekiseki」という繰り返しはリズムがあっていいですね。英訳を意識するなら、名前のリズムは大事かも。
それより驚いたのが、碩堰が女性だったこと。
Sekiseki was huge but could she ever swim.
日本語の
「言ってないし、君は馬鹿ではないよ」
「……君、九年母っていうんだ。香りの好いみかんのことだね。素敵な名前だ」
みたいな喋り方から、勝手に男性性だと思っていたのですが、女性だったとは。英語はどうしても性別をはっきりさせる必要があるので、作者や訳者の考えがここに出てきますね。そうすると、九年母・碩堰・修理亮の3人の立ち位置の風景はちょっと変わってきます。「女・男・男」→「女・女・男」の関係として読むと、違った味わいができます。
碩堰はセイウチなのか
それから、碩堰は一体何の生き物なのか、というのは読んだときから気になっていました。
同級生の碩堰【せきせき】は海馬【うみうま】だけど、名前ほど馬には似ていない。短い前あしが二本、後ろあしはなくて、腰から下は少し細くなり、先は尾になっている。体は大きいけれど、泳ぐのは得意だ。
素直に考えれば、「海馬」はセイウチとかトドといった動物でしょう。描写もその通りですし、今回のイラストもセイウチっぽい感じがします。ただ、九年母は「チンパンジー」とストレートな表現に対して、碩堰は「海馬」という古風な言い方であったことは気になりました。
英訳ではどうなっているかというと、
My classmate, Sekiseki, was a hippocamp. Some people call them “horses of the sea,” but hippocamps aren’t actually as horsey as you might think.
と、「同級生の碩堰はヒッポカムポスだ」と一度区切られ、「”海馬”とも呼ばれるけど、ヒッポカムポスは思うほど馬には似ていない」と、微妙な変更がかけられています。
ヒッポカムポスはWikipediaによると以下の通り。
ギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬である。(中略)ヒッポカンポスの前半分は馬の姿であるが、たてがみが数本に割れて鰭状になり、また前脚に水掻きがついている。胴体の後半分が魚の尾になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%9D%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%9D%E3%82%B9
セイウチの学名は”Odobenus Rosmarus”で、これは”tooth-walking seahorse”という意味です。「牙をもつ歩く海馬」でしょうか。英語の”Walrus”自体も、古ゲルマン語の「馬」からの派生だそうです。日本語のセイウチの意味としての「海馬」は、この「seahorse」の翻訳借用だと考えられます。
ただ、あんまり自信はないのですが、ヒッポカムポスとセイウチはストレートでつながるというよりかは、<ヒッポカムポスー海馬(seahorse)ーセイウチ>というやや迂遠な連想のさせ方だと思います。この遠回りを考えると、訳としては単純に”Walrus”を採用することもできたはずなので、この部分は作者か訳者のこだわりでしょう。
個人的な解釈としては、碩堰はただのセイウチというより、神話的要素の強い、「知性化動物」の中でも特殊な動物の位置づけなのだろうと思います。だから日本語でも碩堰を「海馬」と表現し、英語はギリシア神話の「ヒッポカムポス」を使用したのだと思います。文中にも、彼女の過去が少し見られる発言もあります。
「鬼に食われたと思わないと、諦めがつかなかったんだよ」
と碩堰。経験を積んだ者の発言だと思った。
「碩」は知識、「堰」はそのままダムのようなものを連想するので、彼女の特殊さは、その知識量や聡明さにあるのだろうと考えられます。
和歌の英訳について
次に注目していたのは、「白玉か~」の和歌の英訳です。伊勢物語の英語での全訳は(確か)四種類あったと思いますが、それのどれかを採用するのか、オリジナルにするのか気になっていました。今回の英訳は以下の通り。
O that I had taught thou the folly of thy pearl and vanished like a dewdrop
私は今手元に、Macmillan訳とHarris訳しかないのですが、こんな感じで訳しています.
Macmillan訳
’Are those pearls?,' you asked,
'or what might they be?'
I wish I had replied, 'Drops of dew,'
and vanished
as quickly as they do.
Harris訳
Can these things be pearls
or what other could they be?
When she asked me this
no, they're dewdrops, I replied--
Far better I had vanished!
今回のWilliam訳と今までのものは様子が違うのがわかるのではないでしょうか。
基本的に和歌を英語で訳すときは、五行や二行で分かつことが多く、また詩であることを踏まえて韻を踏むことが多いです(Macmillanでは"'Drops of dew,'”と”as they do.””とか)。
William訳は一行で、古英語のthouやthyを使っているものの、詩というよりは、ただの文の引用のようにも見えます。この形にしたのはなぜなのでしょうか?
なぜ”Tale” of Iseなのか
もう一つ気になったのが、「伊勢物語」の英訳です。William訳は”Tale of Ise”と、”Tale”を単数で扱っています。これも不思議です。
基本的には、歌物語を訳すときは、短編の連なりということで、”Tales of Ise"、”Ise stories”のように複数で表現することの方が一般的です。例えば同じ歌物語の「大和物語」も、”Tales of Yamato”の表現の方が多いでしょう。
一方、「平家物語」や「源氏物語」といった作品は、ひとつの連続した長編という捉えで、”Tale of the Heike”、”Tale of Genji”と、単数で訳される方が一般的です。
しかし、William訳は”Tale"と単数で扱っています。ただのミスなのかもしれませんが、個人的には意図を読み取りたいところです。
そういう視点で日本語版も読んでみると、実はちょっとおかしな点があります。「あらすじはこうだ」という、「芥川」の六段の説明で、「男」と「女」を、直接「在原業平」「高子」と名前を明示しています。もちろん、メタ的にはそうなのですが、九年母たちのテキストでは、実在の人物として六段が語られています。
また、「白玉の~」の和歌も、末尾が「消なましものを」の方を採用しています。現代で読める「伊勢物語」は「天福本」を源流にしたものが(確か)多かったかと思いますが、その場合は「消えなましものを」で、「消なましものを」は、「新古今」に収められているバージョンです。つまり、九年母たちが読んでいる「伊勢物語」は、どうも色々な情報のツギハギで、現代の我々が読んでいる編纂と違う可能性がある、ということです。
そこで、冒頭の、なぜ”Tale"と単数なのかという問いに戻ると、この時代の「伊勢物語」は、歌物語ではなく、在原業平の一代記のような形で編纂されているのではないか、というのが私の考えです。「伊勢物語」の段同士の捉え方は色々ありますが、段が独立しているというよりかは、相互補完的に構成された読み方ができる、という研究もあります(田口尚幸など)。この時代の「伊勢物語」は、そのような傾向が強いため、”Tale"と単数であらわされているのではないでしょうか。
もしかすると「和歌」というものがこの時代(もしくはこの知性化動物)では、存在しない・理解できないものなのかもしれません。そうすると、前項で疑問にあがった和歌の訳し方も、ただの「言葉」の引用として存在するために、William訳のような形を採用した、というのは推測がすぎるでしょうか。
おわりに
というわけで、英訳を元に、あることないこと書いてみました。正直、かなりの深読みなので、ぜんぶ見当違いな気もします。でも、こうやって、既存の作品を改めて考えることができるって、すてきじゃありませんか?