BFC2*2回戦感想「オテサー糠」(文庫版解説風)

 蜂本みさの物語を読むと、まず「悔しい!」という感情が湧いてくる。例えば、上質な本格ミステリを、私より若い作家が書いたところで、称賛を送りこそすれ、「悔しい!」などとは思わない。僭越を承知で書くならば、この物語は、「私が書くべきだった物語」だと思ってしまうのだ。

 今回の「オテサー糠」は徹頭徹尾、「糠」のことしか書かれていない。「糠」を題材にした話というと、最近で言うと小川糸の『食堂かたつむり』を思い出すが(あれも祖母の糠がキーワードになっていた)、この話にはその手の〈自然派〉的なニュアンスはない。有体に言ってしまえば、「糠」に仮託した男女のやりとりであり、ある意味ではオーソドックスな構成である。だが、それを書き切れる作家というのは、そう多くはない。

 さらりと書かれているが、構成はかなりしっかりしている。ご本人の弁では、いつも締切間際に書くようなことを仰っていたが、六枚の中に、お手本のような「起」と「承」がある。まず「わたしたちにはなんにもない」という始まり方は、この物語において、書けそうで書けない一文だ。この一文が冒頭に置かれたことで、成功は約束されたようなものだ。「ひいおばあちゃん」の話もさりげなく記されており、これが最後の展開にもつながっているのも配慮がある。このような細やかな文章の書きぶりは見事という他ない。

 「糠」が失敗する、という展開自体を思いつくことは、そんなに難しいことではない。また、それが男女間の亀裂につながるという構成も、目新しいものではない。しかし、作者はそこに時間をかけない。「ユキオ」が「わたし」の元を去って戻ってくるまでは、200字もない。並の作家なら、ここで「わたし」の感傷をこれでもかといれてくるだろう。しかし蜂本はそうはしない。この話の核はそこではないことを、よく知っているからだ。さり気ない書き手だが、どの文章を生かし殺すか、冷酷ともいえる判断を的確に行える書き手だ。

 誰もが感じることだろうが、「糠太郎、女の子だったんだ」の最後の文は、白眉というか、もうすごい、なんかすごい、めっちゃすごい、としか言いようがない。いや、すごくないですか。すごくすごくて、今私何回「すごい」って書きました?

 だからこそ、気になる点は、この物語を現代の「コロナ」の状況に合わせて書いたことである。確かに、導入として「コロナ」の下敷きがあることで、「糠」を迎え入れるという話は無理なく受け入れられる。だが、この物語を十年後に読んだ時、果たして同じような感想を持つことができるだろうか。いち読者として「コロナ」の世界の話として読んだ時、そこに無用なメッセージ性を求めたくなる意識が、ささやかではあるが生まれてしまう。それはこの作品の根幹の微小な瑕疵にはならないだろうか。

 いずれにせよ、私の感情は「悔しい!」である。「私が書くべきだった物語」だと思うのに、この悔しさは、自身の力と相手の彼我の果てない距離を思い知らされるからこそ、生まれる感情である。

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