記憶の行方#東京の空
エレファント・カシマシの歌に「東京の空」があるけれど、最近エレファント・カシマシは聴いていない。30周年のコンサート、ラストの公演は、運良く、前から数えて一桁の列で見ることができて、火の粉が飛んでくるし、風船落ちてくるし、爆音で聴く宮本さん、マイク通さずとも、歌うまいな、すごいぞ、と、圧倒され、30年分の写真のスライドショーを見ていて、泣けて来ていた。
「どこかで、お会いしましたか?」と、古いナンパの手法を笑えるようになった。目の前で、「あいたた」と、三文芝居で倒れられて、笑いながら「大丈夫ですか?」と、声をかけたのが始まりで、友だちになった人がいる。
なぜか、コンサート中、そんなことを思い出した。
楽しい反面、水をください、と、カラカラに渇いた喉を、持参の水とウィダーインゼリーで潤した。近くには、10年ぶりに会う旧友が座っており、つまんない映画撮ってるんじゃないよ、と、悪態をつく再会となった。ちょうど、受験を終えた子は、隣で食い入るように見ていた。わたしは子に連れられてやってきたコンサートだったが、エレカシの「生活」というアルバムは、鹿児島に住む友人からいただいて、それだけは、ずっと本棚にある。名盤と呼ばれるアルバムは他にもあるのだろうけれど。
「本日の公演は終了いたしました」最後のアナウンスは、宮本さんがアナウンスしていることに気づいたのは、隣に座っていた子だった。
「泣いてるよ」
たしかに宮本さんの声は泣いていた。
子も何かを感じとっていた。
子は、男椅子のTシャツと一枚の写真を購入していた。写真は宮本さんが、身をかがめて歌う姿のモノクロの一枚だった。なんだか産まれおちようとするこどもみたいな姿だった。
「楽しかったね、帰ろう」
人を奮い立たせる歌声の持ち主は、もしかしたら、声量は、これから落ちていくかもしれない。今のすべてが出し尽くされる瞬間は、愛おしい時間だ。
50をこえて、全国ツアー。ライブハウスに疎いわたしですが、「悲しみの果て」の冒頭は、名文だなぁと思う。不確かさを表している。ソロ活動でYouTubeも開設して、人前でお茶を入れて1人舞台の宮本さんもいいですね。独歩。
恵比寿のお茶屋でバイトしている時に、よく、お茶を買いにいらっしゃる方がいて、いつも着てくるTシャツがエレカシのTシャツで、「そのTシャツ、気になるんですけれど」と、思わず声をかけたら、ローディーをやっている方で、時々店先で話をしていたら、
「いつか、コンサート来てください」
「そうですね。こどもがもう少し大きくなったら」
と、約束していたのだけれど、その日いたのかは、確かめなかった。約束は、果たせたかな、と、帰り際に誰もいなくなったステージを遠くに見た。
それから、東京の空をまじまじと眺めたのは、カフェとギャラリーと八百屋が盛り上がり、それでも、わたしは次のことを考えていたからだ。
八百屋には、いろんな人が来て、その中に音楽を作っている方がよくやって来ていて、わたしはその人の音源を一度も聴いたことがなく、なんだか、キテレツなロックスターみたいな服着たあんちゃん来たよ。と、思っていた。
「今日、鍋作る」
「へぇー、あんちゃん、鍋作んの?器用だねー、毎日、買っていくから、ネギおまけね」
あんちゃんは、毎日何かしらの野菜を買っていくのでした。長い時間が空いてしまっても連絡を取り合う友人の1人となったが、今だに、その人のアルバムは聴いたことがない。唯一、たまたま観た映画の音楽を担当していて、偶然聴いた。
八百屋の奥には掘り炬燵があり、シャッターを開けると土間の間口が、ちょうど、映画のスクリーンのシネスコサイズに見えて、そこから店の前を行き来する人を眺めては、合間にご飯を食べる。お客さんは、まあ、値切るんだな、有機野菜、無農薬で野菜を作ることがどんなに手間暇かかっていようが、口にしたい人は、リーズナブルに手にしたい。それは、しごく当たり前のことだと思う。
子を保育園に迎えに自転車で下り坂を下る頃は、あかね雲が見えて、けんを拳って書き間違える程、何かショックなことがあった。
脳内には、葬送行進曲が流れていて、本当に大事な瞬間は撮れないものだと、近所に住む映画監督が言ったことを思い出していた。
映画監督といっても、
「水道止められた」
という映画監督で、面白いのか面白くないのか、いや、何かのコンペで受賞していたから、面白いという人もいるのだけれど、わたしには、良くわからない、映画を撮る人で、
「わかった、じゃあ、水運ぶか」と、八百屋は、バケツで水を運ぶという依頼を受け、何度か水を運んだ。
「電気止められた」
しゃあない、ローソク使ったらどうかなあ。と。ローソクをプレゼント。本当に八百屋だと仕事の範疇を考えていた。
その日は、ひどく晴れていて、フィルムで撮った空のように色褪せていくことは、わかっていた。
(どうするんだ)と、夕焼け雲を背に、子とキャッチボール。
ケガをしたエースをカバーするために、坂道ダッシュとシュート練。ポイントガードとして、子が成長していく様は、わたしを勇気づけてくれた。
帰らなかった日々に故郷は色褪せた写真となり、かつて過ごした風景はなく。
刻々と過ぎていく雲を背中に
東京の空を見上げて、子が育っていくゆるやかな坂道のある街が、わたしにとってのふるさとなんだと思った。