記憶の行方#羊と鋼の森
卵焼きを厚焼きに出来る朝は、日常を取り戻した感覚がある。
その日は、寒い朝でした。当人は覚えていないと思うけれど、あまりにも疲れきって、椅子から立ち、膝にかけていたストールを落としていたことにも気づかず、歩こうとしていた。「あの、」と、強く腕に何かを押し付けられ、触るなコラっ疲れてるから!と言いそうなぐらい不機嫌な顔で振り返ったら、山崎賢人さんがいた。「落としましたよ」と落としたストールを拾って渡してくれた。そのドルチェな顔に驚いた。本人も眠いはずなんですが。「どうもありがとうございます」といって、仕事に入った。他に何を言えばいいか、思いあたらず、一眼レフが目の中にあったら、シャッターを押していたと思う。
『劇場』の山崎賢人さんはいいなぁと思えたので、これまでの出演作品も観てしまった。
『羊と鋼の森』、映画を観ていた。ピアノの調律師の成長物語。原作を読むと、あ、おんなじ感覚を持った人が(架空ですが)いたなぁと嬉しい、その登場人物を描いてくれてありがとう、と思う。それを体現してくれる方もいて、なお、嬉しい。シネフィルではないし、映画マニアでもないけれど、映画を観るのは楽しい。
森の中で木々が揺れる風の音を聴いたことがある人には、きっとわかるはず。森の音が聴こえた時、世界が広がるんだよなぁ、地味に嬉しい。そして、読み終えると安直に調律師になりたいと思ってしまう。自分のピアノは、調律できるようになりたいが、人に頼るのも大事かなあと、現在は、プロに頼む。
映画を観ることや純文学に触れること、音楽やホールでのライブは、洞穴の中で、小さな炎を見るような体験で、観終わったり、読み終えると、「生まれた」感覚がある。
『羊と鋼の森』は、室内のランプの灯りがちょうど、炎の明度に近くてよいですね。照明の演出がよい。一つの調律が終わると、一つのほら穴から新しい世界へ出て行くってことですかね。「再生」ってこういうことかな。
「泣く」ことが、まるで、いけないことのように眉間にシワを寄せながら、仕事をしていたことがあったが、人は「泣きながら」一人で生まれてくる。泣いてもいいじゃないの、と最近思えるようになった。痛々しいのが大人。
例え、自分と同じ考えではない演奏者であっても、調律師は、一人に寄り添う伴走者だと思う。わたしもそんな仕事ぶりでありたい。調律には、一台のピアノやそれを弾く人、調律前のピアノが過ごした時間を知り、今のピアノに関わる環境と向き合う体力と精神力、冷静に判断する決断力、トラブルを回避するアイデアを出す思考力、行動力、見極める耳、が必要かな。音のカウンセラーみたいですね。
オーケストラの音を一気に聴き分ける耳や一度食べたら、何を使っているか、わかってしまうので、自宅で再現する絶対音感的な絶対舌(なにそれ?)を持っていますが、仕事では、まるで役に立ったことはない。やれやれ。
思い通りにはならない、口惜しいこともあるのが仕事。しかし、それをいろんなアイデアで、乗り切る。
ドキュメンタリー「ピアノマニア」を観るとほんの少しそれが垣間見られる。「note to note」も観てみたいが、未見。
迷いなく、何かを得られる人がどれだけいるのでしょうか、きれいごとだけでは、やっていけないといいますが、きれいごとを並べて生きる人もいる。きれいごとを並べられるのは、16歳の少年の特権。揺るぎなく見守れるのは、親の特権。
森の中で迷ったら、風の音の聞けばいい。