前提となる常識が違う
今週、遅い夏休みを取った。
今年定年&古希を迎えた母と3日間行動を共にしたのだが、この3日間で痛切に感じたのがタイトルのとおりのことである。
特に実感したエピソードをひとつ。
最終日の3日目の朝、私が前日あまり寝付けず体調がすぐれなかった。
寝不足で明らかにバッドコンディションであったため、チェックアウトギリギリまで横になっていようと思っていたのだが、何やら母の動きが慌ただしい。
「なにしてんの」と聞いたら
「ママ帰る」
「アンタ寝てていいよ、何なら延長しといてあげるから」
…は??
…え??
いや違うじゃん
今日は観光して帰ろうって言ってたじゃん
「え」
「うそでしょ」
「おいてくの??」
「だってそんなにしんどいなら一緒にいてもつらいだけでしょ」
わかる、わかるのだ。
母は完全に優しさで動いている。
それは長年親子をやっていればわかる。
ただ、私の中に体調の優れない娘をホテルに一人残して帰ることが優しさだという前提は全くない。
私ならどうするか。
一人にしてあげようという発想は同じだ、一旦部屋を出るだろう。
そしてロビーなり近くの喫茶店なりで、あまり歩かない&移動の少ない観光プランを考えるだろう。
その上で本人にチェックアウト前30分くらいで意向を確認して、一緒に行くなら行くし
帰りたいと言われれば解散にする。
私なら。
私ならきっとこうする。
ただ、母にはその発想はない。
母は一人にしてあげて思う存分休ませてあげるのが私への最大限の優しさだと完全に思っている。
これこそがまさに、「前提となる常識が違う」ということである。
そもそも優しさとは何か。
相手が何を求めているのか。
その時の最善の手段は何なのか。
そういう「前提となる常識」が異なると、このような齟齬が産まれてしまう。
(なお結局私が無理やり起きて共に観光し、無事平和に解散した)
何十年も親子をやっていても、未だにこのような前提となる常識のすり合わせができていないのだから、第三者との関係であれば尚更このようなことは起こりうる。
どうしてほしいのか
どうしたら相手が喜ぶのか
面倒でもきちんとコミュニケーションを取って確認することこそが、何よりも平和的に物事を進める基本だなと改めて実感した親子旅行であった。
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