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【エッセイ】桜見物回り道~娘のこと
久しぶりの桜
昨日の夕方予定通り妻子犬連れで桜を見物に行った。
「花見」というような大げさな事ではなくて、犬の散歩の足を普段よりも少し延ばして近所の公園まで行き、施設内に植えてある桜を見て歩いたという程度の事なので桜見物。
快晴だったし、タイミング的にもまさに満開に近い状況で、なんか桜も久しぶりにゆっくり見るときれいなものだなぁという感激もあった。
帰り道、妻からちょっと回り道をするという提案があり、特に異論はないので付いていくと、そこにもやはり桜。やはり満開。
だが、普段あまりいかない場所にある桜で、なぜ敢えてこの桜を見るために回り道をするのかと尋ねると、この桜はここ数年、娘が見に来て写真を撮っているのだという。謂わば定期定点観測。
「私は何となく数年ぶりの桜になっていたが、娘は毎年見に来ていたのだなぁ、こういう事って気持ちが和らぐなぁ」
などと内心で嬉しい気持ち。
場面緘黙で他人とのコミュニケーションがほとんどできず、不登校になってしまって早数年が経つけれど、私たち夫婦と犬に対してはごく普通。
年頃でそれなりに父親に対する反発はあるものの、失礼を承知で世間の父親と比較するとすれば全然幸せな方で、一緒にフィットボクシングをやって筋肉痛になったり、自分が酒のアテを作るついでに肉をやけばパクパクとおいしそうに食べてくれる。昨日作ったカレーだってしっかり食べてくれた。
妻に聴くところでは、年頃の娘を持つ父親の待遇は私より遥かに悲惨だという(笑)
なんだかんだ、幸せな休日である。
情熱の薔薇そして生きる
そんなささやかな幸せを感じつつ歩いていたら、つい最近テレビで歌詞について考察する番組を観た時のことを思い出した。
「2番の歌詞が刺さる歌」みたいなことで50代はザ・ブルーハーツの「情熱の薔薇」が採用されていた。
” なるべく小さな幸せと
なるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう
そんな気持ちわかるでしょう”
わかるわからないというより、世代がどうこうというより、こういう気持ちってきっと人の心の中にずっとくすぶってる想いなんじゃないかと感じる。
そりゃ幸せだらけがいいのかもしれないけれど、現実はそうばかりじゃないってことは誰もがちゃんとわかっていて、でも前向きであろうとするあまり不幸せからは目を逸らすのだ。それが小さな不幸せだからいいものの、放置することで次第に大きくなってしまえば無視するわけにはいかなくなるし処置にも苦労が必要になるだろう。
庶民が現実の生活の中で、視界からはみ出るほどの幸・不幸に出会う事は稀かもしれないが、ほんの小さな幸・不幸は常に経験し常に喜び常に乗り越えて生きている。不幸だって乗り越えれば達成感も生まれるしそのこと自体を幸せに感じる事だってあるだろう。そうしてちょっとずつ自分の思い描く人生を歩いているのだと思う。
先日書いた「積読」という記事でザ・クロマニヨンズの「生きる」について書いたが、甲本ヒロトが歌詞に織り込むことは30年前から一貫していて「現実」や「今」の重要性を叫んでいるように思える。
” いつかどこかわからないけど
何かを好きになるかもしれない
その時まで空っぽでもいいよ
すこしだけ分けてくれ
3億年か4億年
見えるモノだけ それさえあれば
たどりつけない答えは無いぜ
ずっとここには
ずっとここには
時間なんかなかった”
敢えて再掲したけれど、娘を見ていると、やはりこの歌詞が響いてくるのだよなぁ。