【エッセイ】意味とか価値とか#1
かなり昔の話
アート・イベント?
以前私が主宰していた即興集団がアートチックなイベントになぜか招聘され、当時「呼ばれればどこにでも行って演る」みたいな活動をしていた関係でのこのこ参加したことがある。
そもそもこの集団、基本は音を出すわけなのだけど、メンバー不定/参加自由/打ち合わせなし/違法でなければなにをしてもいい、みたいな感じで活動していたのでその日も都合のつく暇人数人で出向いて、他の参加者の演目を楽しんでいたのだが、なんだかそれが「楽器の演奏の仕方に対するこだわりと蘊蓄」「ピアノと歌」「ペインティング」等で、演目が終わる度にイベント主催者と演者のディスカッション的なものが挟まれていて、どう考えても我々のようなスカム集団としては場違いな感覚はあった。もう、ひしひしと感じていた。
演奏
「でも、まぁこれはこれでいいんじゃない?とりあえず演れる場はあるのだし、好きにやって帰れば」
といういつもの気軽なテンションで時を過ごし、ついに我々の順番になる。
「呼ばれればどこにでも行って演る」という以外にもうひとつポリシーがあってそれは。
「どんなに馬鹿げたことでも、ふざけず真面目に全身全霊で演る」
ということであり、全身全霊を体現するための集中力を維持する方法として他の一切の情報を遮断するために我々は通常ではあり得ないレベルの音量で演奏することを常としていたすなわち、日本武道館でも最後列まで届くような音量をどんな狭い場所でも鳴らし続けていたわけで、演奏について打ち合わせも何もしないので当然、終わりも決めておらず演奏者全員が終わる気になって音が消えていくまで演奏は延々続くのである。
そもそも主催者側が指定した演奏時間なんてものは端から目安としか考えておらず、その日も50分近く切れ目なく大音量でリズムもメロディーも和音も一切存在しない雑音騒音を撒き散らして演奏を終了した。
おそらく客も他の演者も主催者も、果たしてこれで終わったのかどうかも分からず、したがって拍手も歓声も湧かぬ中、我々はいつも通り無言で黙々と機材の撤収を終えた。
ディスカッション
さて。
問題はその後のディスカッションである。
主催者を始め、客、他の演者、いやそもそも我々自身。
耳がおかしくなっていて、音が極めて聞き難いのである。
大音量かつ超高音超低音を強調した音塊を長時間聴き続けた耳で特に聴き取りにくくなるのは人の声あたりの中域の音であって、全員がドリフのコントに出てくる爺さん婆さんの如き有様になっている。
何を話しても「え?」「え、何?」という体たらくなのである。
会話にならないのだからやめれば良いのに主催者は気取った素振りで、ディスカッションを決行、私はしぶしぶ主催者の前に設えられたパイプ椅子に座った。
主催者「もごもご」
私「え、何?」
主催者「いつ頃からこういう活動を?」(叫び)
私「はぁ、かれこれ10年以上」
主催者「え?」
私「10年!」(絶叫)
主催者「モゴモゴ」
私「あ?」(イライラ)
主催者「この活動にどんな意味があるんですか?」(半泣き)
私「ない」
主催者「?」(耳に手をあてている)
私「意味はない!」(血圧上昇)
集団メンバー「文志さん、そんなくだらない質問、真面目に答えなくていいっすよ!」(怒号)
主催者「ん?」(憤慨)
私「てへ」(照れ」
そんなことでそもそも会話が成立せず、他の出演者の5分の1くらいの時間でディスカッションは終了。
ちなみにこの1年後くらいにこの主催者は自らを”前衛アートディレクター”と称し、なんやかんやいろんなイベントを開催し、しまいには自治体の文化関係の部署を丸め込んで、地域をアートの街的にしようとしばらくは奮闘していたらしいけれども最近はあまり名前を聞かなくなった。
おそらく
この主催者はアートに対して憧れや興味があって、自分もそういう事に携わりたいという志を持っていたのだと推測できる。
それは全然良いと思う。興味のあることにたいしてはどんどんやってみるべきだと思う。でもね。
自分のやっていることをアートとか芸術とか、全然そういうふうに思っていない人を手当たり次第に捕まえてきて、その活動の「意味」とやらを問うという段階ですくなくとも前衛とはかけ離れた考えだと私は思う。
自分の集団は
”やりたいことをやりたいようにやりたい場所で一切の制限なく価値もレベルも不問にして老若男女の区別なく好き勝手にする集団”
であり、むりやりカテゴライズするなら
「スカムを徹底追求したパンクの亜流」
である。
「楽器弾きたけりゃ弾け、歌いたきゃ歌い踊りたきゃ踊れ、描きたきゃ描いて書きたきゃ書け、飲みたきゃ飲め、ぼっ立ってたけりゃ立ってろ、逆立ちしたけりゃすればいい、メシを食いたきゃ食え、裸になりたけりゃ脱げ。但し、自分を含めたすべての人を絶対に否定せず排除せず、かならず全力で真面目に全身全霊でやれ」
そもそも
絵でも文章でも楽器演奏でも演技でも、創作するのに意味なんてあるのだろうか?
描きたいから描き書きたいから書き弾きたいから弾き歌いから歌い演じたいから演じるのであって、それを発表するのにレベルや意味を主たる価値とするなら、おそらく創作者は熟練した老人ばかりになるだろう。
昨日初めて弦を張ったギター弾き。
始めてコトバを発した赤ん坊。
親を真似て文字の如き形を書き始めた幼児。
癇癪を起こして絶叫する子供。
創作者の発端はそこにある。
そういう技術とは無縁のパッションだけで今この瞬間に始めたような人の生々しい作品が展示され、ライブされ、発表されてみんながその存在を知ることで驚愕の表現者が世に出れば、きっと退屈しない世界になり、人の存在のすべてがエンターテインメントになる。
無垢の欲望に意味を求めることはそもそもが無意味だ。