2022年 抱負の旅
あけましておめでとうございます。
2022年ということですが、2021年は過去のしがらみや他者の目に囚われ、やりたいことも思考も定まらなかったかと思います。
しかしながら『悩みは人を変化させる』こともあり、人間関係・コミュニティにおいては大きな変化があった一年だった。
2021年の反省を踏まえ、2022年は以下の通りの抱負を胸に一年を旅していこうと思う。
きっと忘れるかも知れないけど、考えることに意味があるのだ。
1.諦めることを決める
2021年、特に時間と労力を使ったのは過去に対しての『後悔』と未来への『不安』だった。
元カレへの後悔(もう誰とも付き合えないんじゃないかという未来への恐怖)
好きな人に好かれたい
周囲の人間にどう思われるかへの恐怖(言った言葉への過度な反省と後悔)
作品を完璧にしようとするあまり、作家への返事が遅れた
どっちが得か、考え過ぎて何も出来ない
こうして羅列してみると、後悔と不安を感じるのはどれも『人間関係』『損得勘定』のようだ。
それらは『今、手にしていない(手に入ることもない)』人間関係や報酬があたかも自分には手に入る資格があるのだという前提から端を発するものなのであって、一種の「楽観的な期待」が必要以上に自身を落ち込ませるのではないか?
神になれなくて落ち込む人間はいるか?
魔法が使えなくて落ち込むことは?
最初から手に入らないと諦めれば落ち込むことはないように、自分に出来ることと出来ないことをきちんと精査する必要がある。
人から認められることを諦める
好き嫌いは千差万別、好かれたらラッキー過ぎ去った過去を取り戻すのを諦める
覆水盆に返らず、新しいコップに水を入れろ完璧主義を諦める
そんな選択肢あったら人類みんなやってる
間違えてはならないのは、諦めることは堕落して生きることではないこと。己の出来ることを見定めてそれに突き進むことは無駄な体力の消耗を防ぎ、己の力を高めるのに役に立つはずなのだから。
2.イベントバーに参加する
ひとつの思考や人間関係に縛られてる時というのは固定概念や単にその人の知識不足だったりする。
多様な視点を持ち、出来ないことを諦めるには多様な人類に会うのが先決ではないか?
そんな仮説をもとに去年の12月からプロ奢のオンラインサロン、「三ツ星スラムのゴミ捨て場」で豊富な知識を学びつつ、他者と広く関わることで現行の人間関係への執着を減らしてきた。
今年はそれを『オンラインからオフライン』へと活動の幅を広げ、よりディープに、より実感を伴った人間関係を感じることで不必要な承認欲求や過去への執着を諦めていきたい。
つまり、イベントバーへ参加することだ。
知らない環境は誰だって恐ろしい。だが、そのくらがりへと立ち向かった先、新しい自分に出会えることを期待して、見たことない世界を覗いてみよう。
3.スラムマーケットに出店する
これも先に出たくらがりチャレンジでもあるが、『無理することを諦める』為には『無理しなくても出来ること』を知る必要がある。
普段の仕事は少なからず無理して(残業とか、生活がボロボロになるとか)給料を得ている節がある。だとすれば片手間でお金を得ることが出来ればそれは「無理しなくても出来ること」の証明に他ならない。
売れなくても問題ないのだから、ひとまずやってみるに越したことはないだろう。(※以下、商品案)
毒舌トーク
編集の仕事を活かして相手を分析LINEスタンプ
仕事の合間のラクガキ編集オフレコトーク
仕事中にあった表に出せない話をzoomで今日の夢日記
ご指定日の夢日記を贈る
4.銭湯に月3回は行く
銭湯は健康に良い。冬はあったかいし、広い風呂場は快適だし、人と話さずとも裸で場を共にすることは精神的にも落ち着く。
その上、銭湯は『コミュニティを知る』にはもってこいの場だ。客層から地域性が如実に出ており、創業神話や商業的付加価値までがセットで付いてくる。
何より大抵の日本人は風呂に入っている&飯ネタなどの好き嫌いに左右されることが比較的少ないので会話のネタとしてはなかなか優秀である。
趣味と実用を兼ねて銭湯文化を開拓したい。
5.神話と儀式を学ぶ
現代人の失われたものの一つとして『神話と儀式』が挙げられるのではないかと考えられる。
科学技術の発展により(とはいえ、化学というやつも他方から見れば「科学教」のようにひとつの宗教として取ることも可能だが)精神的な拠り所であった『宗教』に以前ほど価値を見出せなくなってしまっている。
その結果、人々は神経症やいつまでも大人になることの出来ないまま日々を不安と不満のもとで生きているのではないか。
神話はそれを聞く者の人生に意味を与え、儀式によって社会レベルでの納得をもたらした。
宗教を以前のように復興させることは難しい。だが、個人レベルとして「神話を学び、儀式を完遂することで自らの人生を肯定」することが出来るのではないだろうか?
そのような仮説のもと、今年は以下の本を課題図書として読み進めることにする。
6.月1回、誰かに贈与する
スラム恒例の『贈与』。相手からお手軽に好かれる上、あげた本人も気分が良い。
月1回、誰かに何かを贈与しよう。それだけで周囲の人間関係も気分も良くなるのだから。
7.『やりたくない』ことを知る
人生振り返ってみると、私は『やりたくない』を原動力に生きてきた。
父親と一緒にいたくない
運転をしたくない
朝早く起きたくない
立ち仕事をしたくない
などなど。挙げればキリがない。
我慢をすることが苦手な私はとにかくこの『やりたくない』ことから逃れる為に行動してきた。
父と離れる為に一人暮らしをし、運転をしたくないから東京に行き、朝早く起きたくないから10時始業の職場にし、立ち仕事に疲れたからデスクワークに切り替えた。
しかし私自身、最近そうした『やりたくない』ことより『やりたい』ことが優先されがちであるとこの抱負を書いて気がついた。
『諦める』ことにも通ずるが『やりたくない』はやむを得ないといった性質がある。そうした「負のエネルギー」を使い、今年は自身を進化させていきたい。
8.悩みは『noteとスラム』で言語化
これまで悩み事は全てスマホのメモ帳にひっそりと記載するか、カウンセラーに相談する形でどうにか消化してきた。
しかし、どうせアウトプットするなら「記事」や「投稿」といった形で『note』や『スラム』で言語化してみようと思う。
というのも、他者の目に触れることを前提にすると分かりやすいものを書こうとする意識が「ごちゃ混ぜになった思考をクリアにする」と考えられるからだ。
コンプラやプライベートに関わることは有料化し、当たり障りのないことは無料で出す。
そして売れても売れなくても元々『ゴミ』だったものを出してるだけなのだから特にダメージもない。
これは気軽に続けていこうと思う。
9.山に登る
山に登りたい、ただそれだけの強い欲望ということもあるが、もっと突っ込んで話をすると山は「生と死を体験できる儀式の場」だと思っている。
以前、高尾山にかなりの軽装備(ワンピースとスニーカーという、ふざけた格好)で誤ってプロコースを登ってしまった時、高山病に罹り、一瞬「仙人」が見えてしまった経験がある。(もちろん、ただの幻覚)
その時に思ったのは「ああ、人は本当に山で仙人を見るんだな」といった実に呑気な考えと、「ここで死んだら私は食べたい物も食べられず、行きたい所にも行けないままワンピースを来て登山した頭のおかしい女』として報道されるのかといった絶望だった。
いや、それは辛い。そんなオチってありか?
それから死物狂いで山を登り切り、全身から信じられない程の汗を掻きながら頂上で水を飲んだ。
(あの時飲んだ水は人生で最も美味しかった…)
しかし、今から考えるとどうしてあれほどのパワーと根性で登り切れたのか不思議で仕方ない。
思うに、仙人との邂逅は「神秘体験を伴った、山に登る以前の私の死を意味する儀式」であり、山を登り切ったことによって私は「新しい自分へと生まれ変わった」のではないだろうか?
ちなみに、山を登り切った私は「山で仙人を見ること以上におかしなこと」はないと、沢山歩くことも全く食べないことも苦にならなくなったのである。
この神秘を裏付ける為にも、再び山登りに挑んでみたい次第である。
10.スラムでラジオを主催する
目立つことが「恥ずかしい」という意識がある。
そして「罪悪感とプレッシャー」がのしかかる。
これらは幼少期の頃より「目立ったことをすると叱られる」といった強い観念がそうさせているのではないかと考える。
(コンプレックスが拗れ過ぎて存在感が薄くなってしまったのも悩みの種…)
ラジオを主催することで「意識を自分自身」から「他者」へと切り替えて物事を見る練習が出来るのではないだろうか?
話す内容は
作業通話
銭湯トーク
仕事で会った妖怪たち
を候補にしている。
まとめ
コンプレックス(またの名を『呪い』ともいう)を「言語化」し、負の側面を活かして「人間関係の輪を広げる」ことをしてみたい。
今年はどんな『悩み』が降り掛かってくるのだろう?それらが私にどんな『死』をもたらし、どんな風に『生まれ変わる』のか、楽しみで仕方ない。
野生のあざらしへの飼育代はこちらから☆ エサを食べて無限に書きます。