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世界から結婚式が消えたなら

これは結婚式のプロである私に一切頼られることなく、妹たち夫婦が作った結婚式のお話。(妹:↑写真参照)

広島は尾道、妹の結婚式に向かう。妹の名前は悠夜と書いて、ゆゆと読む。私は昔からなぜかゆっぷんと呼んでいる。満月の夜に生まれたからと、名付けられた読みづらいその名前のせいで、幼い時から妹はよく名前を間違えられて呼ばれていた。妹は若くして結婚・離婚後、縁もゆかりもなかった地に生後間もない子供を連れて単身で移住していた。私が創業した3.11の地震後すぐから、7年も前のこと。妹の結婚式当日、天気はすっごくよいのに、時折雨がぱらついていて、会場となったお寺は、朝から準備の人がひっきりなしに訪れていた。荷物一つで引っ越してきた妹のサポートをしてくださった、恩人のおじちゃんがお餅をついていて、その周りを子供たちが走り回っていた。

日もすっかり暮れた結婚式の終わりに、お父さんが朗読の舞台をした。妹が生まれた時のこと、どんなにその誕生が感動的だったかということ、なぜこの名前をつけたのかということ、を語っていた。一緒に舞台を作っていたコンテンポラリーダンサーの熱と、美しいピアノの音が、お寺の本堂に響いていた。舞台を見てむせび泣く妹に目をやった。なんだか私も、自分の半生を見返したような気がした。そう、私たちは生まれてすぐワゴンで日本1周をして、その途中で妹は生まれ、その後千葉の片田舎に移り住んで自給自足をして…という、人とはだいぶ違う生活の中で私たち姉妹は無数の葛藤と共に生きてきた。

家賃1万円のとんでもなくボロい古民家に住まい、お米や野菜を育て自給自足の生活をして、毎日お風呂を私が薪で焚いて私たちは暮らしていた。家の中に蛇が出て近所の家に泊まりに行くこともあった。私は周囲に必死に順応しようと葛藤し、不器用なところもあってその周囲に馴染めなかった素直な妹は、いじめもうけた。それが嫌で中学校に行かず、東京に出て芸能活動をして、大河ドラマにでていた時代もあった。私が大学生、妹が高校生の時に、千葉の家を出て二人で上京し、お絵描きが好きだった妹は、バンタンハイスクールでアートを学び、吉祥寺に暮らし、若くに結婚して、「日々」という名の子供が生まれていた。

無数の歯を食いしばった記憶と、でもそうでなかったら生まれ得なかった、オリジナルの人生を回想してこみ上げてくるのは、「全てがあって今に辿り着いている」という、過去の記憶が繋がっていく感覚だった。挙式にも出ずリハーサルをし通して、舞台を妹に贈る自由な76歳の父の姿を見て、自分が信じる道を今もなお疑わない彼に、自分が自分である原点を私たち姉妹は見たような気がした。この家族から始まる、全ての葛藤と、自分にしかないストーリー、友人・仕事、そして今の家族や幸せ...その全てがセットなのだと新たに、静かに、知ることとなる。

だって、今日の結婚式も大概すごかった。

パンツの国旗やアートが飾られたお寺。参加費は3000円で、妹夫婦が好きな尾道のお店やさんが出店していた。たこやきやピザ屋さん、お茶屋さんに古本屋・古着やさん、地元のレモンやさんまで。麗しい着物姿で仏前式を終えた妹は、ファンキーな格好で家族バンド(エアー笑)から始まり、アイドルさながら歌っていた。その後、お母さんからぼんやりと聞いていたプレゼント交換を全員でして、お餅つき。最後には友達作のウェディングドレス姿で登場し、最後は皆が涙した父の朗読の舞台があったのだ。顔も性格も、全く姉妹で似ていないと今日まで言われ続けたなかで、サンバを踊って3回お色直しをした5時間にも及ぶ私の結婚式と通じるものがあった。笑

そんな奇想天外の結婚式の終わりに、妹はステージに立って、お餅をついてくれた尾道の恩人のおじちゃんがいなかったら今はないことを、涙で途切れ途切れに話していた。そして、初めてできた友達に対して「いつも娘のぴっちゃんと二人きりだったご飯が、三人で食べられるようになってどれだけ嬉しかったか。友達になってくれてありがとう」と、伝えていた。みんな泣いていた。見ず知らずの土地で、100人もの人が集まり、これだけ多くの人が協力してくれているという凄さ。この数年、尾道のどこにいっても「ゆゆちゃんのお姉ちゃん!」と声をかけられたし、妹の子供を連れているとみんなが名前を呼んで駆け寄ってきて、可愛がってくれていた。今日までも、そしてもちろん今日も、妹がこの町に愛されていることが心底伝わってきた。

この日、家族である妹の結婚式を見て、結婚式とは?を何度も考えた。そして、最も強く思ったことが、「結婚式が世界からなくなったらどうしよう」ということだった。私たちが提供している結婚式とは全く違うけど、妹の結婚式とCRAZY WEDDINGに通じるのは、人生を体験できる、ということだと思う。来てくれたゲストへの一番のおもてなしは、「その人と出会い、過ごした日々と今日に、心から感動をする」ということに他ならないと私は思う。

結婚をしたという事実へのおめでとうは、一瞬の沸騰でしかない。結婚した今日という点ではなく、結婚までの全ての日々(つまり人生)を体験できるから、結婚式というのはすごいコンテンツなのだと私は思う。私は結婚式を作る時に、ゲストが自分の人生と、この二人の人生・結婚とが繋がっている、と感じることを重要視している。ゲストが、二人と自分の両方の人生に感動できるから、ゲストにとって忘れ得ない人生を揺さぶる体験になるのだ。その結婚する二人の人生に感動することはつまり、自分の人生の一部に感動することでもある。そんな結婚式がこの世の中に増えたらいいと心から思う。

お寺の住職さんが言っていた。「辛いことがあるから、嬉しいことがあるわけではなく、辛いことも嬉しいことも それそのものが全てが人生なのです」と。なるほど、私もそう思う。だから、それを表現することが大事なんだ。

今日の終わりに、「世界から結婚式が消えたなら」と、想像する。アルバムを見返して人生を振り返ることも、今大切な人を確認して声をかけることも、こんなに感動的なありがとうを伝えることも、親が心から安堵して「これで良かったのだ」と子育てに一区切りつけることも、ゲストがこの人と出会えて良かったと、関係性をこんなにも深めることもない・・・なんて。

妹の結婚式のように、二人とゲストが今日までの人生の全ての意味をつなげることも、ここまで集中して感動することも、結婚式という場なくして絶対に難しい。この感動は、一対一で結婚式と同じ時間話をしたとしても実現しないから不思議なものだ。近年、結婚式は一言で、人生編集だと私は思う。死ぬ時に、誰かに整理されて伝えられるなんて、100年ライフにおいて、遠すぎるし、勿体なさすぎる。そして、

結婚式は始まりという瞬間ではなく、終わりの編集なのだと思う。だって、入籍は籍を森山家に入れることだけど、私にとってはこれまでずっとそこにいた山川の籍から外れることでもあった。今までの人生を一度終わりにする節目を作る。終わるから、切なくて、ありがたくて、嚙み締める。ここまでの人生を棚卸しして、ひとつの終わりをつけることを、その味わい深さを感じることを、この長い人生に提案したい。

妹の破天荒な結婚式で、また確信した。こうやって、結婚式は本当に多くを与えてくれる。結婚式という、二人とゲストにとって、人生の全てが報われる日。これをどうしても私は、未来に残したい。人が人と共に生きるということは、楽なことではない。うちのプロデューサーの多くは、きっと普通以上にそれを知った人たちだ。言い換えれば人生に向き合い、苦しんできた人たちでもある。そうでないと、そういう人たちでないと生み出せないものがある、と私は信じて居る。CRAZY WEDDINGは全ての過去を愛し、それがあったから結んだ結婚という人生の節目を祝い表現していくことを、またこの日に誓った。

妹よ、すんごい刺激をありがとう。離婚した時は、ゆっぷんに何かあったら、日々を引き取るつもりで、見守っていました。この結婚のために、すべてのプロセスがあったのね。幸せに、幸せに、なってね。ビバ!(旦那の格好もまじでやばい!天才!)





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